》とは思われないように胸を打たれます。取分けて私などは自分の経験があるだけに、人一倍にその労苦が思いやられます。
その折柄、あたかもあなたから「昔の従軍記者」に就《つ》いておたずねがありましたので、自分が記憶しているだけの事を左にお答え申します。御承知の通り、日露戦争の当時、わたしは東京日日新聞社に籍を置いていて、従軍新聞記者として満洲《まんしゅう》の戦地に派遣されましたので、なんと云っても其の当時のことが最も多く記憶に残っていますが、お話の順序として、まず日清戦争当時のことから申上げましょう。
日清戦争当時は初めての対外戦争であり、従軍記者というものの待遇や取締りについても、一定の規律はありませんでした。朝鮮に東学党の乱が起って、清《しん》国がまず出兵する、日本でも出兵して、二十七年六月十二日には第五師団の混成旅団が仁川《じんせん》に上陸する。こうなると、鶏林《けいりん》(朝鮮の異称)の風雲おだやかならずと云うので、東京大阪の新聞社からも記者を派遣することになりましたが、まだ其の時は従軍記者というわけではなく、各社から思い思いに通信員を送り出したというに過ぎないので、直接には軍隊とは何の関係もありませんでした。
そのうちに事態いよいよ危急に迫って、七月二十九日には成歓牙山《せいかんがさん》のシナ兵を撃ち攘《はら》うことになる。この前後から朝鮮にある各新聞記者は我が軍隊に附属して、初めて従軍記者ということになりました。戦局がますます拡大するに従って、内地の本社からは第二第三の従軍記者を送って来る。これらはみな陸軍省の許可を受けて、最初から従軍新聞記者と名乗って渡航したのでした。
これらの従軍記者は宇品《うじな》から御用船に乗り込んで、朝鮮の釜山《ふざん》または仁川に送られたのですが、前にもいう通り、何分にも初めての事で、従軍記者に対する規律というものが無いので、その扮装《ふんそう》も思い思いでした。どの人もみな洋服を着ていましたが、腰に白|木綿《もめん》の上帯を締めて、長い日本刀を携えているのがある。槍《やり》を持っているのがある。仕込杖《しこみづえ》をたずさえているのがある。今から思えば嘘《うそ》のようですが、その当時の従軍記者としては、戦地へ渡った暁《あかつき》に軍隊がどの程度まで保護してくれるか判らない。万一負け軍《いくさ》とでもなった場合には、自衛行動をも執らなければならない。非戦闘員とて油断は出来ない。まかり間違えばシナ兵と一騎討ちをするくらいの覚悟が無ければならないので、いずれも厳重に武装して出かけたわけです。実際、その当時はシナ兵ばかりでなく、朝鮮人だって油断は出来ないのですから、この位の威容を示す必要もあったのです。軍隊の方でも別にそれを咎《とが》めませんでした。
*
前にもいう通り、従軍新聞記者に対する待遇や規定がハッキリしていないので、その配属部隊の待遇がまちまちで、非常に優遇するのもあれば、邪魔物扱いにするのもある。記者の方にも、おれは軍人でないから軍隊の拘束を受けない、と云ったような心持があって、めいめいが自由行動を執るという風がある。軍隊の方でも余りやかましく云うわけにも行かない。それがために、軍隊側にも困ることがあり、記者側にも困ることがあり、陣中におけるいろいろの挿話が生み出されたようでした。
明治三十三年の北清事件当時にも、各新聞社から従軍記者を派出しましたが、これは戦争というほどの事でもないので、やはり日清戦争当時と同様、特に規律とか規定とか云うようなものも設けられませんでした。
次は三十七、八年の日露戦争で、この時から従軍新聞記者に対する待遇その他が一定されました。従軍記者は大尉相当の待遇を受ける。その代りに軍人と同様、軍隊の規律にいっさい服従すべしと云うことになりました。もう一つ、従軍記者は一社一人に限るというのです。こうなると、画家も写真班も同行することを許されないわけです。
これには新聞社も困りました。画家や写真班はともあれ、記者一人ではどうにもなりません。軍の方では第一軍、第二軍、第三軍、第四軍を編成して、それが別々の方面へ向って出動するのに、一人の記者が掛持《かけもち》をすることは出来ません。そこで、まず自分の社から一人の従軍願いを出して置いて、さらに他の新聞社の名儀を借りるという方法を案出しました。
京阪は勿論《もちろん》、地方でも有力の新聞社はみな従軍願いを出していますが、地方の小さい新聞社では従軍記者を出さないのがある。その新聞社の名儀で出願すれば、一社一人は許されるので、東京の新聞社は争って地方の新聞社に交渉することになりました。東京日日新聞社からは黒田《くろだ》甲子郎君がすでに従軍願いを出して、第一軍配属と決定しているので、わたしは東京通信社の名をもって許可を受けました。
東京通信社などはいい方で、そんな新聞があるか無いか判らないような、遠い地方の新聞社員と称して、従軍願いを出す者が続々あらわれる。陸軍省でその新聞社の所在地を訊《き》かれても、御本人はハッキリと答えることが出来ないと云うような滑稽《こっけい》もありました。陸軍側でもその魂胆を承知していたでしょうが、一社一人の規定に触れない限りは、いずれも許可してくれました。それで東京の各新聞社も少なきは二、三人、多きは五、六人の従軍記者を送り出すことが出来たのでした。
勿論、それは内地を出発するまでのことで、戦地へ行き着くと皆それぞれに正体をあらわして、自分は朝日だとか日日だとか名乗って通る。配属部隊の方でも怪しみませんでした。しかし袖印《そでじるし》だけは届け出での社名を用いることになっていて、わたしもカーキー服の左の腕に東京通信社と紅《あか》く縫った帛《きれ》を巻いていました。日清戦争当時と違って、槍や刀などを携帯することはいっさい許されません。武器はピストルだけを許されていたので、私たちは腰にピストルを着けていました。
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従軍記者の携帯品は、ピストルのほかに雨具、雑嚢《ざつのう》または背嚢《はいのう》、飯盒《はんごう》、水筒、望遠鏡で、通信用具は雑嚢か背嚢に入れるだけですから、たくさんに用意して行くことが出来ないので困りました。万年筆はまだ汎《ひろ》く行なわれない時代で、万年筆を持っている者は一人もありませんでした。鉛筆は折れ易くて不便であるので、どの人も小さい毛筆を用いていました。従って、矢立《やたて》を持つ者もあり、小さい硯《すずり》と墨を使っている者もあり、今から思えばずいぶん不便でした。
しかしまた、一利一害の道理で、われわれは机にむかって通信を書く場合はほとんど無い。シナ家屋のアンペラの上に俯伏《うつぶ》して書くか、或いは地面に腹|這《ば》いながら書くのですから、ペンや鉛筆では却《かえ》って不便で、むしろ柔かい毛筆を用いた方が便利だと云う場合もありました。紙は原稿紙などを用いず、巻紙に細かく書きつづけるのが普通でした。
宿舎は隊の方から指定してくれた所に宿泊することになっていて、妄《みだ》りに宿所を更《か》えることは出来ません。大抵は村落の農家でした。しかし戦闘継続中は隊の方でもそんな世話を焼いていられないので、私たちは勝手に宿所を探さなければなりません。空家へはいったり、古廟《こびょう》に泊まったり、時には野宿することもありました。草原や畑に野宿していると、夜半から寒い雨がビショビショ降り出して来て、あわてて雨具をかぶって寝る。こうなると、少々心細くなります。鬼が出るという古廟に泊まると、その夜なかに寝相《ねぞう》の悪い一人が関羽《かんう》の木像を蹴倒《けたお》して、みんなを驚かせましたが、ほかには怪しい事もありませんでした。鬼が出るなどと云い触らして、土地のごろつきどもの賭場《とば》になっていたらしいのです。
食事は監理部へ貰《もら》いに行って、米は一人について一日分が六合、ほかに罐詰などの副食物をくれるのですが、時には生きた鷄《とり》や生《なま》の野菜をくれることがある。米は焚《た》かなければならず、鷄や野菜は調理しなければならず、三度の食事の世話もなかなか面倒でした。私たちは七人が一組で、二人の苦力《クーリー》を雇っていましたが、シナの苦力は日本の料理法を知らないので、七人の中から一人の炊事当番をこしらえて、毎日交代で食事の監督をしていました。煮物をするにはシナの塩を用い、或いは醤油エキスを水に溶かして用いました。砂糖は監理部で呉れることもあり、私たちが町のある所へ行って買うこともありました。
苦力の日給は五十銭でしたが、みな喜んで忠実に働いてくれました。一人は高秀庭《こうしゅうてい》、一人は丁禹良《ていうりょう》というのでしたが、そんなむずかしい名を一々呼ぶのは面倒なので、わたしの考案で一人を十郎《じゅうろう》、他を五郎《ごろう》という事にしました。この二人が「新聞記者雇苦力、十郎、五郎」と大きく書いた白布を胸に縫い付けているので、誰の眼にも着き易く、往来の兵士らが面白半分に「十郎、五郎」と呼ぶので、二人もいちいちその返事をするのに困っているようでした。苦力の曾我《そが》兄弟はまったく珍しかったかも知れません。
東京へ帰ってから聞きますと、伊井蓉峰《いいようほう》の新派一座が中洲《なかず》の真砂座《まさござ》で日露戦争の狂言を上演、曾我兄弟が苦力に姿をやつして満洲の戦地へ乗り込み、父の仇《かたき》の露国将校を討ち取るという筋であったそうで、苦力の五郎十郎が暗合《あんごう》しているには驚きました。但《ただ》し私たちの五郎十郎は正真正銘の苦力で、かたき討などという芝居はありませんでした。
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「なにか旨《うま》い物が食いたいなあ。」
そんな贅沢《ぜいたく》を云っているのは、駐屯無事の時で、ひとたび戦闘が開始すると、飯どころの騒ぎでなく、時には唐蜀黍《とうもろこし》を焼いて食ったり、時には生玉子二個で一日の命を繋《つな》いだこともありました。沙河《しゃか》会戦中には、農家へはいって一椀の水を貰《もら》ったきりで、朝から晩まで飲まず食わずの日もありました。不眠不休の上に飲まず食わずで、よくも達者に駈け廻られたものだと思いますが、非常の場合にはおのずから非常の勇気が出るものです。そんな場合でも露西亜兵《ロシアへい》携帯の黒パンはどうしても喉《のど》に通りませんでした。シナ人が常食の高梁《コーリャン》も再三試食したことがありますが、これは食えない事もありませんでした。戦闘が始まると、シナ人はみな避難してしまうので、その高梁飯も戦闘中には求めることが出来ず、空腹をかかえて駈けまわることになるのです。
燈火は蝋燭《ろうそく》か火縄で、物をかく時は蝋燭を用い、暗夜に外出する時には火縄を用いるのですが、この火縄を振るのが案外にむずかしく、緩《ゆる》く振れば消えてしまい、強く振れば振り消すと云うわけで、五段目の勘平《かんぺい》のような器用なお芝居は出来ません。今日《こんにち》ならば懐中電燈もあるのですが、不便なことの多い時代、殊《こと》に戦地ですから已《や》むを得ないのです。火縄を振るのは路《みち》を照らす為ばかりでなく、野犬を防ぐためです。満洲の野原には獰猛《どうもう》な野犬の群れが出没するので困りました。殊にその野犬は戦場の血を嘗《な》めているので、ますます獰猛、ほとんど狼にひとしいので、我々を恐れさせました。そのほかには、蝎《さそり》、南京《ナンキン》虫、虱《しらみ》など、いずれも夜となく、昼となく、我々を悩ませました。蝎に螫《さ》されると命を失うと云うので、虱や南京虫に無神経の苦力らも、蝎と聞くと顔の色を変えました。
「新聞記者に危険はありませんか。」
これはしばしばたずねられますが、決して危険がないとは云えません。従軍記者も安全の場所にばかり引き籠っていては、新しい報告も得られず、生きた材料も得られませんから、危険を冒《おか》して奔走しなければなりません。文字通りに、砲烟弾雨《ほうえんだんう》の中をくぐるこ
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