こんにち》のように追剥《おいは》ぎや出歯亀《でばかめ》の噂《うわさ》などは甚《はなは》だ稀《まれ》であった。
遊芸の稽古《けいこ》所と云うものもいちじるしく減じた。私の子供の頃には、元園町一丁目だけでも長唄の師匠が二、三軒、常磐津《ときわづ》の師匠が三、四軒もあったように記憶しているが、今ではほとんど一軒もない。湯帰りに師匠のところへ行って、一番|唸《うな》ろうという若い衆も、今では五十銭均一か何かで新宿《しんじゅく》へ繰り込む。かくの如くにして、江戸っ子は次第に亡《ほろ》びてゆく。浪花節の寄席が繁昌《はんじょう》する。
半鐘《はんしょう》の火の見|梯子《ばしご》と云うものは、今は市中に跡を絶ったが、わたしの町内にも高い梯子があった。或る年の秋、大嵐のために折れて倒れて、凄まじい響きに近所を驚かした。翌《あく》る朝、私が行ってみると、梯子は根もとから見事に折れて、その隣りの垣を倒していた。その頃には烏瓜《からすうり》が真っ赤に熟して、蔓《つる》や葉が搦《から》み合ったままで、長い梯子と共に横たわっていた。その以来、わたしの町内に火の見梯子は廃せられ、そのあとに、関《せき》運漕店の旗
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