今日の衛生論から云うと余り感心しないものであろうが、かの冷奴《ひややっこ》なるものは夏の食い物の大関である。奴豆腐を冷たい水にひたして、どんぶりに盛る。氷のぶっ掻きでも入れれば猶さら贅沢《ぜいたく》である。別に一種の薬味として青紫蘇《あおじそ》か茗荷《みょうが》の子を細かに刻んだのを用意して置いて、鰹節《かつおぶし》をたくさんにかき込んで生醤油《きじょうゆ》にそれを混ぜて、冷え切った豆腐に付けて食う。しょせんは湯豆腐を冷たくしたものに過ぎないが、冬の湯豆腐よりも夏の冷奴の方が感じがいい。湯豆腐から受取る温か味よりも、冷奴から受取る涼し味の方が遥《はる》かに多い。樋口一葉《ひぐちいちよう》女史の「にごり江」のうちにも、源七《げんしち》の家の夏のゆう飯に、冷奴に紫蘇の香たかく盛り出すという件《くだ》りが書いてあって、その場の情景が浮き出していたように記憶している。
「夕顔や一丁残る夏豆腐」許六《きょろく》の句である。
 ある人は洒落《しゃれ》て「水貝」などと呼んでいるが、もとより上等の食いものではない。しかもほんとうの水貝に比較すれば、その価が廉《やす》くて、夏向きで、いかにも民衆的で
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