ない。平仮名でおてつと大きく書いてある。わたしは今これを自分の茶碗に遣《つか》っている。しかし此《こ》の茶碗には幾人の唇《くちびる》が触れたであろう。
今この茶碗で番茶をすすっていると、江戸時代の麹町が湯気のあいだから蜃気楼《しんきろう》のように朦朧《もうろう》と現われて来る。店の八つ手はその頃も青かった。文金《ぶんきん》高島田にや[#「や」に傍点]の字の帯を締めた武家の娘が、供の女を連れて徐《しず》かにはいって来た。娘の長い袂《たもと》は八つ手の葉に触れた。娘は奥へ通って、小さい白扇を遣っていた。
この二人の姿が消えると、芝居で観る久松《ひさまつ》のような丁稚《でっち》がはいって来た。丁稚は大きい風呂敷包みをおろして縁《えん》に腰をかけた。どこへか使いに行く途中と見える。彼は人に見られるのを恐れるように、なるたけ顔を隠して先《ま》ず牡丹餅を食った。それから汁粉を食った。銭を払って、前垂れで口を拭《ふ》いて、逃げるようにこそこそ[#「こそこそ」に傍点]と出て行った。
講武所《こうぶしょ》ふうの髷《まげ》に結《ゆ》って、黒|木綿《もめん》の紋付、小倉《こくら》の馬乗り袴《ばかま》、
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