こえる。月並ながらも行水というものに相当した季題の道具立てはまずひと通り揃っているのであるが、どうも一向に俳味も俳趣も泛《う》かび出さない。
行水をつかって、唐もろこしの青い葉が夕風にほの白くみだれているのを見て、わたしは日露戦争の当時、満洲で野天風呂を浴びたことを思い出した。海城、遼陽その他の城内にシナ人の湯屋があるが、城から遠い村落に湯屋というものはない。幸いに大抵の民家には大きい甕《かめ》が一つ二つは据えてあるので、その甕を畑のなかへ持ち出して、高梁《コウリャン》を焚いて湯を沸かした。満洲の空は高い、月は鏡のように澄んでいる。畑には西瓜《すいか》や唐茄子《とうなす》が蔓を這わせて転がっている。そのなかで甕から首を出して鼻唄を歌っていると、まるで狐に化かされたような形であるが、それも陣中の一興《いっきょう》として、その愉快は今でも忘れない。甕は焼き物であるから、湯があまりに沸き過ぎた時、うかつにその縁《ふち》などに手足を触れると、火傷《やけど》をしそうな熱さで思わず飛びあがることもあった。
しかしそれは二十年のむかしである。今のわたしは野天風呂で鼻唄をうたっている勇気はない。行
前へ
次へ
全408ページ中343ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング