りをしている人もある。その人は俳優の配りものらしい浴衣《ゆかた》を着て、日よけの頬かむりをして粋《いき》な莨入《たばこい》れを腰にさげている。そこには笛をふいている飴《あめ》屋もある。その飴屋の小さい屋台店の軒には、俳優の紋どころを墨や丹《あか》や藍《あい》で書いた庵《いおり》看板がかけてある。居付きの店で、今川焼を売るものも、稲荷鮓《いなりずし》を売るものも、そこの看板や障子や暖簾には、なにかの形式で歌舞伎の世界に縁のあるものをあらわしている。仔細《しさい》に検査したら、そこらをあるいている女のかんざしも扇子も、男の手拭も団扇《うちわ》も、みな歌舞伎に縁の離れないものであるかも知れない。
こうして、築地橋から北の大通りにわたるこの一町内はすべて歌舞伎の夢の世界で、いわゆる芝居町《しばいまち》の空気につつまれている。もちろん電車や自動車や自転車や、そうした騒雑な音響をたてて、ここの町の空気をかき乱すものは一切《いっさい》通過しない。たまたま此処《ここ》を過ぎる人力車があっても、それは徐《しず》かに無言で走ってゆく。あるものは車をとどめて、乗客も車夫もしばらくその絵看板をながめている。
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