ど以前、わたしの旅館には若い男女の劇薬心中があって、それは二階の何番の座敷であると云うことがわかった。
 その何番は私の隣室で、当分お客を入れないといったのも無理はない。そこは幽霊(?)に貸切りになっているらしい。宿へ帰ると、私はすぐに隣り座敷をのぞきに行った。夏のことであるが、人のいない座敷の障子は閉めてある。その障子をあけて窺《うかが》ったが、別に眼につくような異状もなかった。
 その日もやがて夜となって、夏の温泉場は大抵寝鎮まった午後十二時頃になると、隣りの座敷で女の軽い咳《せき》の声がきこえる。勿論、気のせいだとは思いながらも、私は起きてのぞきに行った。何事もないのを見さだめて帰って来ると、やがて又その咳の声がきこえる。どうも気になるので、また行ってみた。三度目には座敷のまんなかへ通って、暗い所にしばらく坐っていたが、やはり何事もなかった。
 わたしが隣り座敷へ夜中に再三出入りしたことを、どうしてか宿の者に覚られたらしい。その翌日は座敷の畳換えをするという口実のもとに、わたしはここと全く没交渉の下座敷へ移されてしまった。何か詰まらないことを云い触らされては困ると思ったのであろう
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