ました。

     (下)

 一本杉の下《もと》には金洞舎という家があります。この山の所有者の住居で、かたわら登山者の休憩所に充ててあるのです。二人はここの縁台を仮りて弁当をつかいました。弁当は菱屋で拵《こしら》えてくれたもので、山女《やまめ》の塩辛く煮たのと、玉子焼と蓮根《れんこん》と奈良漬の胡瓜《きゅうり》とを菜《さい》にして、腹のすいているわたしは、折詰の飯をひと粒も残さずに食ってしまいました。わたしはここで絵葉書を買って記念のスタンプを捺《お》して貰いました。東京の友達にその絵葉書を送ろうと思って、衣兜《かくし》から万年筆を取り出して書きはじめると、あたかもそれを覗き込むように、冷たい霧は黙ってすう[#「すう」に傍点]と近寄って来て、わたしの足から膝へ、膝から胸へと、だんだんに這い上がって来ます。葉書の表は見るみる湿《ぬ》れて、インキはそばから流れてしまいます。わたしは癇癪をおこして書くのをやめました。そうして、自分も案内者もこの家も、あわせて押し流して行きそうな山霧の波に向き合って立ちました。
 わたしは日露戦役の当時、玄海灘《げんかいなだ》でおそろしい濃霧に逢ったことを
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