たのは、六歳の七月、日は記憶しないが、途方もなく暑い日であった。わたしの家は麹町の元園町にあったが、その頃の麹町辺は今日《こんにち》の旧郊外よりもさびしく、どこの家も庭が広くて、家の周囲にも空地《あきち》が多かった。
 わたしの家と西隣りの家とのあいだにも、五、六間の空地があって、隣りの家には枸杞《くこ》の生垣《いけがき》が青々と結いまわしてあった。わたしはその枸杞の実を食べたこともあった。その生垣の外にひと株の大きい柳が立っている。それが自然の野生であるか、あるいは隣りの家の所有であるか、そんなこともよく判らなかったが、ともかくも相当の大木で、夏から秋にかけては油蝉やミンミンやカナカナや、あらん限りの蝉が来てそうぞうしく啼いた。柳の近所にはモチ竿や紙袋を持った子供のすがたが絶えなかった。前にいう七月のある日、なんでも午後の三時頃であったらしい。大夕立の真っ最中、その柳に落雷したのである。
 雷雨を恐れて、わたしの家では雨戸をことごとく閉じていたので、落雷当時のありさまは知らない。唯《ただ》すさまじい雷鳴と共に、家内が俄かに明るくなったように感じただけであったが、雨が晴れてから出てみると、かの柳は真っ黒に焦《こ》げて、大木の幹が半分ほども裂けていた。わたしは子供心に戦慄《せんりつ》した。その以来、わたしはかみなり様が嫌いになった。
 それでも幸いに、ひどい雷嫌いにもならなかったが、さりとて平然と落着いているような勇士にはなれなかった。雷鳴を不愉快に感ずることは、昔も今も変りがない。その私が暴雷におびやかされた例が三回ある。
 その一は、明治三十七年の九月八日か九日の夜とおぼえている。わたしは東京日日新聞の従軍記者として満洲の戦地にあって、遼陽《りょうよう》陥落の後、半月ほどは南門外の迎陽子という村落の民家に止宿していたが、そのあいだの事である。これは夕立というのではなく、午後二時頃からシトシトと降り出した雨が、暮るると共に烈《はげ》しく降りしきって、九時を過ぎる頃から大雷雨となった。
 雷光は青く、白く、あるいは紅《あか》く、あるいは紫に、みだれて裂けて、乱れて飛んで、暗い村落をいろいろに照らしている。雨はごうごう[#「ごうごう」に傍点]と降っている。雷はすさまじく鳴りはためいて、地震のような大きい地ひびきがする。それが夜の白らむまで、八、九時間も小歇《こや》みなしに続いたのであるから、実に驚いた。大袈裟《おおげさ》にいえば、最後の審判の日が来たのかと思われる程であった。もちろん眠られる筈もない。わたしは頭から毛布を引っかぶって、小さくなって一夜をあかした。
「毎日大砲の音を聞き慣れている者が、雷なんぞを恐れるものか。」
 こんなことを云って強がっていた連中も、仕舞いにはみんな降参したらしく、夜の明けるまで安眠した者は一人もなかった。夜が明けて、雨が晴れて、ほっ[#「ほっ」に傍点]とすると共にがっかりした。
 その二は、明治四十一年の七月である。午後八時を過ぎる頃、わたしは雨を衝《つ》いて根岸《ねぎし》方面から麹町へ帰った。普通は池《いけ》の端《はた》から本郷台へ昇ってゆくのであるが、今夜の車夫は上野《うえの》の広小路《ひろこうじ》から電車線路をまっすぐに神田にむかって走った。御成《おなり》街道へさしかかる頃から、雷鳴と電光が強くなって来たので、臆病な私は用心して眼鏡《めがね》をはずした。
 もう神田区へ踏み込んだと思う頃には、雷雨はいよいよ強くなった。まだ宵ながら往来も途絶えて、時どきに電車が通るだけである。眼の先もみえないように降りしきるので、車夫も思うようには進まれない。ようように五軒町《ごけんちょう》附近まで来かかった時、ゆく先がぱっ[#「ぱっ」に傍点]と明るくなって、がん[#「がん」に傍点]というような霹靂一声、車夫はたちまちに膝を突いた。車は幌《ほろ》のままで横に倒れた。わたしも一緒に投げ出された。幌が深いので、車外へは転げ出さなかったが、ともかくもはっ[#「はっ」に傍点]と思う間にわたしの体は横倒しになっていた。二、三丁さきの旅籠町《はたごちょう》辺の往来のまんなかに落雷したのである。
 わたしは別に怪我《けが》もなかった。車夫も膝がしらを少し擦り剥《む》いたぐらいで、さしたる怪我もなかった。落雷が大地にひびいて、思わず膝を折ってしまったと、車夫は話した。しかし大難が小難で済んだわけで、もし私の車がもう一、二丁も南へ進んでいたら、どんな禍《わざわ》いを蒙《こうむ》ったか判らない。二人はたがいに無事を祝して、豪雨のなかをまた急いだ。
 その三は、大正二年の九月、仙台《せんだい》の塩竃《しおがま》から金華山《きんかざん》参詣の小蒸汽船に乗って行って、島内の社務所に一泊した夜である。午後十時頃から山もくずれるような大雷
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