雨となった。
「なに、直ぐに晴れます。」
社務所の人は慰めてくれたが、なにしろ場所が場所である。孤島の雷雨はいよいよ凄愴《せいそう》の感が深い。あたまの上の山からは瀧のように水が落ちて来る、海はどうどう[#「どうどう」に傍点]と鳴っている。雷は縦横無尽に駈けめぐってガラガラとひびいている。文字通りの天地震動である。こんなありさまで、あしたは無事に帰られるかと危ぶまれた。天候の悪いときには幾日も帰られないこともあるが、社務所の倉には十分の食料がたくわえてあるから、決して心配には及ばないと云い聞かされて、心細いなかにも少しく意を強うした。
社務所の人の話に嘘はなかった。さすがの雷雨も十二時を過ぎる頃からだんだんに衰えて、枕もとの時計が一時を知らせる頃には、山のあたりで鹿の鳴く声がきこえた。喜んで窓をあけて見ると、空は拭《ぬぐ》ったように晴れ渡って、旧暦八月の月が昼のように明るく照らしていた。私はあしたの天気を楽しみながら、窓に倚《よ》って徐《しず》かに鹿の声を聞いた。その爽《さわや》かな心持は今も忘れないが、その夜の雷雨のおそろしさも、おなじく忘れ得ない。
白柳秀湖《しらやなぎしゅうこ》氏の研究によると、東京で最も雷雨の多いのは杉並《すぎなみ》のあたりであると云う。わたしの知る限りでも、東京で雷雨の多いのは北|多摩《たま》郡の武蔵野町から杉並区の荻窪《おぎくぼ》、阿佐ヶ谷《あさがや》のあたりであるらしい。甲信《こうしん》盆地で発生した雷雲が武蔵野の空を通過して、房総《ぼうそう》の沖へ流れ去る。その通路があたかも杉並辺の上空にあたり、下町方面へ進行するにしたがって雷雲も次第に稀薄になるように思われる。但し俗に「北鳴り」と称して、日光《にっこう》方面から押し込んで来る雷雲は別物である。[#地付き](昭和11・7「サンデー毎日」)
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鳶
去年の十月頃の新聞を見た人々は記憶しているであろう。日本橋蠣殻町《にほんばしかきがらちょう》のある商家の物干へ一羽の大きい鳶《とび》が舞い降りたのを店員大勢が捕獲して、警察署へ届け出たというのである。ある新聞には、その鳶の写真まで掲げてあった。
そのとき私が感じたのは、鳶という鳥がそれほど世間から珍しがられるようになった事である。今から三、四十年前であったら、鳶なぞがそこらに舞っていても、降りていても、誰も見返る者もあるまい。云わば鴉《からす》や雀《すずめ》も同様で、それを捕獲して警察署へ届け出る者もあるまい。鳶は現在保護鳥の一種になっているから、それで届け出たのかも知れないが、昔なら恐らくそれを捕獲しようと考える者もあるまい。それほどに鳶は普通平凡の鳥類と見なされていたのである。
私は山の手の麹町に生長したせいか、子供の時から鳶なぞは毎日のように見ている。天気晴朗の日には一羽や二羽はかならず大空に舞っていた。トロトロトロと云うような鳴き声も常に聞き慣れていた。鳶が鳴くから天気がよくなるだろうなぞと云った。
鳶に油揚《あぶらげ》を攫《さら》われると云うのは嘘ではない。子供が豆腐屋へ使いに行って笊《ざる》や味噌《みそ》こしに油揚を入れて帰ると、その途中で鳶に攫って行かれる事はしばしばあった。油揚ばかりでなく、魚屋《さかなや》が人家の前に盤台《はんだい》をおろして魚をこしらえている処へ、鳶が突然にサッと舞いくだって来て、その盤台の魚や魚の腸《はらわた》なぞを引っ掴んで、あれ[#「あれ」に傍点]という間に虚空《こくう》遥かに飛び去ることも珍しくなかった。鷲《わし》が子供を攫って行くのも恐らく斯《こ》うであろうかと、私たちも小さい魂《きも》をおびやかされたが、それも幾たびか見慣れると、やあまた攫われたなぞと面白がって眺めているようになった。往来で白昼掻っ払いを働く奴を東京では「昼とんび」と云った。
小石川《こいしかわ》に富坂町《とみざかまち》というのがある。富坂はトビ坂から転じたので、昔はここらの森にたくさんの鳶が棲んでいた為であるという。してみると、江戸時代には更にたくさんの鳶が飛んでいたに相違ない。鳶ばかりでなく、鶴《つる》も飛んでいたのである。明治以後、鶴を見たことはないが、鳶は前に云う通り、毎日のように東京の空を飛び廻っていたのである。
鳶も鷲と同様に、いわゆる鷙鳥《しちょう》とか猛禽《もうきん》とか云うものにかぞえられ、前に云ったような悪《わる》いたずらをも働くのであるが、鷲のように人間から憎まれ恐れられていないのは、平生から人家に近く棲んでいるのと、鷲ほどの兇暴を敢《あえ》てしない為であろう。子供の飛ばす凧《たこ》は鳶から思い付いたもので、日本ではトンビ凧といい、漢字では紙鳶と書く。英語でも凧をカイトという。すなわち鳶と同じことである。それを見ても、遠い昔から
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