が忽ちにあらわれ来たったものと知られたが、軍医部は少し離れているので、薬をもらいに行くことも出来ない。持ち合せの宝丹を塗ったぐらいでは間に合わない。私はアンペラの敷物の上にころがって苦しんだ。
歯はいよいよ痛む。いっそ夜風に吹かれたらよいかも知れないと思って、私はよほど腫《は》れて来たらしい右の頬をおさえながら、どこを的《あて》ともなしに門外まで迷い出ると、月の色はますますあかるく、門前の小川の水はきらきらと輝いて、堤の柳の葉は霜をおびたように白く光っていた。
わたしは夜なかまでそこらを歩きまわって、二度も歩哨の兵士にとがめられた。宿へ帰って、午前三時頃から疲れて眠って、あくる朝の六時頃、洗面器を裏手の畑へ持ち出して、寝足らない顔を洗っていると、昨夜来わたしを苦しめていた下歯一枚がぽろり[#「ぽろり」に傍点]と抜け落ちた。私は直ぐにそれをつまんで白菜《パイサイ》の畑のなかに投げ込んだ。そうして、ほっ[#「ほっ」に傍点]としたように見あげると、今朝の空も紺青《こんじょう》に高く晴れていた。
もう一つの思い出は、右の奥の上歯一枚である。
大正八年八月、わたしが欧洲から帰航の途中、三日ばかりは例のモンスーンに悩まされて、かなり難儀の航海をつづけた後、風雨もすっかり収まって、明日はインドのコロンボに着くという日の午後である。
私はモンスーン以来痛みつづけていた右の奥歯のことを忘れたように、熱海丸の甲板を愉快に歩いていた。船医の治療を受けて、きょうの午《ひる》頃から歯の痛みも全く去ったからである。食堂の午飯《ひるめし》も今日は旨く食べられた。暑いのは印度洋であるから仕方がない。それでも空は青々と晴れて、海の風がそよそよ[#「そよそよ」に傍点]と吹いて来る。暑さにゆだって昼寝でもしているのか、甲板に散歩の人影も多くない。
モンスーンが去ったのと歯の痛みが去ったのと、あしたはインドへ着くという楽しみとで、私は何か大きい声で歌いたいような心持で、甲板をしばらく横行闊歩していると、偶然に右の奥の上歯が揺らぐように感じた。今朝まで痛みつづけた歯である。指でつまんで軽く揺すってみると、案外に安々と抜けた。
なぜか知らないが、その時の私はひどく感傷的になった。何十年の間、甘い物も食った。まずい物も食った。八百善の料理も食った。家台店のおでんも食った。そのいろいろの思い出がこの歯一枚をめぐって、廻り燈籠のように私の頭のなかに閃《ひらめ》いて通った。
私はその歯を把《と》って海へ投げ込んだ時、あたかも二|尾《ひき》の大きい鱶《ふか》が蒼黒い背をあらわして、船を追うように近づいて来た。私の歯はこの魚腹に葬られるかと見ていると、鱶はこんな物を呑むべく余りに大きい口をあいて、厨《くりや》から投げあたえる食い残りの魚肉を猟《あさ》っていた。私の歯はそのまま千尋《ちひろ》の底へ沈んで行ったらしい。わたしはまだ暮れ切らない大洋の浪のうねりを眺めながら、暫くそこに立ち尽くしていた。
前の下歯と後の上歯と、いずれもそれが異郷の出来事であった為に、記憶に深く刻まれているのであろうが、こういう思い出はとかくにさびしい。残る下歯六枚については、余り多くの思い出を作りたくないものである。[#地付き](昭和12・7「報知新聞」)
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我が家の園芸
上目黒へ移ってから三年目の夏が来るので、彼岸《ひがん》過ぎから花壇の種蒔《たねま》きをはじめた。旧市外であるだけに、草花類の生育は悪くない。種をまいて相当の肥料をあたえて置けば、まず普通の花は咲くので、われわれのような素人でも苦労はないわけである。
そこで、毎年欲張って二十種ないし三十種の種をまいて、庭一面を藪《やぶ》のようにしているのであるが、それでは藪蚊の棲み家を作るおそれがあるので、今年はあまり多くを蒔かないことにした。それでも糸瓜《へちま》と百日草だけは必ず栽えようと思っている。
わたしは昔の人間であるせいか、西洋種の草花はあまり好まない。チューリップ、カンナ、ダリアのたぐいも多少は栽えるが、それに広い地面を分譲しようとは思わない。日本の草花でも優しげな、なよなよ[#「なよなよ」に傍点]したものは面白くない。桔梗《ききょう》や女郎花《おみなえし》のたぐいは余り愛らしくない。わたしの最も愛するのは、糸瓜と百日草と薄《すすき》、それに次いでは日まわりと鶏頭《けいとう》である。
こう列べたら、大抵の園芸家は大きな声で笑い出すであろう。岡本綺堂という奴はよくよくの素人で、とてもお話にはならないと相場を決められてしまうに相違ない。わたしもそれは万々《ばんばん》承知しているが、心にもない嘘をつくわけには行かないから、正直に告白するのである。まあ、笑わないで聴いて貰いたい。
まず第一には糸瓜で
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