者であった。
思えば六十余年の間、私はむし歯のために如何ばかり苦しめられたかわからない。むし歯は自然に抜けたのもあり、医師の手によって抜かれたのもあり、年々に脱落して、現在あます所は上歯二枚と下歯六枚、他はことごとく入歯である。その上歯二枚が一度に抜けたのであるから、上頤《うわあご》は完全に歯なしとなって、総入歯のほかはない。
世に総入歯の人はいくらもある。現にわたしの親戚知人のうちにも幾人かを見いだすのであるが、たとい一枚でも二枚でも自分の生歯があって、それに義歯を取付けているうちは、いささか気丈夫であるが、それがことごとく失われたとなると、一種の寂寥《せきりょう》を覚えずにはいられない。大きくいえば、部下全滅の将軍と同様の感がある。
馬琴《ばきん》も歯が悪かった。「里見八犬伝」の終りに記されたのによると、「逆上《のぼぜ》口痛の患ひ起りしより、年五十に至りては、歯はみな年々にぬけて一枚もあらずなりぬ」とある。馬琴はその原因を読書執筆の過労に帰しているが、単に過労のためばかりでなく、生来が歯質の弱い人であったものと察せられる。五十にして総入歯になった江戸時代の文豪にくらべれば、私などはまだ仕合せの方であるかも知れないと、心ひそかに慰めるのほかはない。殊に江戸時代と違って、歯科の技術も大いに進歩している今日に生まれ合せたのは、更に仕合せであると思わなければならない。それにしても、前にいう通り、一種の寂寥の感は消えない。
私をさんざん苦しめた後に、だんだんに私を見捨てて行く上歯と下歯の数《かず》かず、その脱落の歴史については、また数かずの思い出がある。それをいちいち語ってもいられず、聞いてくれる人もあるまいが、そのなかで最も深く私の記憶に残っているのは、奥歯の上一枚と下一枚の抜け落ちた時である。いずれも右であった。
北支事変の風雲急なる折柄、殊にその記憶がまざまざと甦《よみがえ》って来るのである。
明治三十七年、日露戦争の当時、わたしは従軍新聞記者として満洲の戦地へ派遣されていた。遼陽陥落の後、私たちの一行六人は北門外の大紙房《ターシーファン》という村に移って、劉という家の一室に止宿していたが、一室といっても別棟の広い建物で、満洲普通の農家ではあるが、比較的清浄に出来ているので、私たちは喜んでそこにひと月ほどを送った。
先年の震災で当時の陣中日記を焼失してしまったので、正確にその日を云い得ないが、なんでも九月二十日前後とおぼえている。四十歳ぐらいの主人がにこにこ[#「にこにこ」に傍点]しながらはいって来て、今夜は中秋《ちゅうしゅう》であるから皆さんを招待したいという。私たちは勿論承知して、今夜の宴に招かれることになった。
山中ばかりでなく、陣中にも暦日《れきじつ》がない。まして陰暦の中秋などは我々の関知する所でなかったが、二、三日前から宿の雇人らが遼陽城内へしばしば買物に出てゆく。それが中秋の月を祭る用意であることを知って、もう十五夜が来るのかと私たちも初めて気がついた。それがいよいよ今夜となって、私たちはその御馳走に呼ばれたのである。ここの家は家族五人のほかに雇人六人も使っていて、まず相当の農家であるらしいので、今夜は定めて御馳走があるだろうなどと、私たちはすこぶる嬉しがって、日の暮れるのを持ち構えていた。
きょうは朝から快晴で、満洲の空は高く澄んでいる。まことに申し分のない中秋である。午後六時を過ぎた頃に、明月が東の空に大きく昇った。ここらの月は銀色でなく、銅色である。それは大陸の空気が澄んでいるためであると説明する人もあったが、うそか本当か判らない。いずれにしても、銀盤とか玉盤とか形容するよりも、銅盤とか銅鏡とかいう方が当っているらしい。それが高く闊《ひろ》い碧空に大きく輝いているのである。
この家の主人夫婦、男の児、女の児、主人の弟、そのほかに幾人の雇人らが袖をつらねて門前に出た。彼らは形を正して、その月を拝していた。それから私たちを母屋《おもや》へ招じ入れて、中秋の宴を開くことになったが、案の如くに種々の御馳走が出た。豚、羊、鶏、魚、野菜のたぐい、あわせて十種ほどの鉢や皿が順々に運び出されて、私たちは大いに満腹した。そうしてお世辞半分に「好々的《ホーホーデー》」などと叫んだ。
宴会は八時半頃に終って、私たちは愉快にこの席を辞して去った。中には酩酊して、自分たちの室《へや》へ帰ると直ぐに高鼾《たかいびき》で寝てしまった者もあった。あるいは満腹だから少し散歩して来るという者もあった。私も容易に眠られなかった。それは満腹のためばかりでなく、右の奥の下歯が俄かに痛み出したのである。久し振りで種々の御馳走にあずかって、いわゆる餓虎《がこ》の肉を争うが如く、遠慮もお辞儀もなしに貪《むさぼ》り食らった祟《たた》り
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