、老人は言問団子《ことといだんご》に休んで茶を飲んだ。この老人はまったく足が達者で、記者はとうとう梅若《うめわか》まで連れて行かれた。
「どうです、くたびれましたか。年寄りのお供は余計にくたびれるもので、わたしも若いときに覚えがありますよ。」
長い堤《つつみ》を引返して、二人は元の浅草へ出ると、老人は辞退する道連れを誘って、奴《やっこ》うなぎの二階へあがった。蒲焼で夕飯を食ってここを出ると、広小路の春の灯は薄い靄《もや》のなかに沈んでいた。
「さあ、入相《いりあい》がボーンと来る。これからがあなたがたの世界でしょう。年寄りはここでお別れ申します。」
「いいえ、わたしも真直《まっす》ぐに帰ります。」
老人の家は新宿のはずれである。記者の家も麹町である。同じ方角へ帰る二人は、門跡前《もんぜきまえ》から相乗りの人力車に乗った。車の上でも話しながら帰って、記者は半蔵門のあたりで老人に別れた。
言問では団子の馳走になり、奴では鰻の馳走になり、帰りの車代も老人に払わせたのであるから、若い記者はそのままでは済まされないと思って、次の日曜に心ばかりの手みやげを持って老人をたずねた。その家のありかは、新宿といってもやがて淀橋に近いところで、その頃はまったくの田舎であった。先日聞いておいた番地をたよりに、尋ねたずねて行き着くと、庭は相当に広いが、四間《よま》ばかりの小さな家に、老人は老婢《ばあや》と二人で閑静に暮らしているのであった。
「やあ、よくおいでなすった。こんな処は堀の内のお祖師《そし》さまへでも行く時のほかは、あんまり用のない所で……。」と、老人は喜んで記者を迎えてくれた。
それが縁となって、記者はしばしばこの老人の家を尋ねることになった。老人は若い記者にむかって、いろいろのむかし話を語った。老人は江戸以来、神田に久しく住んでいたが、女房に死に別れてからここに引込んだのであるという。養子が横浜で売込商のようなことをやっているので、その仕送りで気楽に暮らしているらしい。江戸時代には建具屋を商売にしていたと、自分では説明していたが、その過去に就いては多く語らなかった。
老人の友達のうちに町奉行所の捕方《とりかた》すなわち岡っ引の一人があったので、それからいろいろの捕物の話を聞かされたと云うのである。
「これは受け売りですよ。」
こう断わって、老人は「半七捕物帳」の材料を幾つも話して聞かせた。若い記者はいちいちそれを手帳に書き留めた。――ここまで語れば大抵判るであろうが、その記者はわたしである。但し、老人の本名は半七ではない。
老人の話が果たして受け売りか、あるいは他人に托して自己を語っているのか、おそらく後者であるらしく想像されたが、彼はあくまでも受け売りを主張していた。老人は八十二歳の長命で、明治三十七年の秋に世を去った。その当時、わたしは日露戦争の従軍新聞記者として満洲に出征していたので、帰京の後にその訃《ふ》を知ったのは残念であった。
「半七捕物帳」の半七老人は実在の人物であるか無いかという質問に、わたしはしばしば出逢うのであるが、有るとも無いとも判然《はっきり》と答え得ないのは右の事情に因るのである。前にも云う通り、かの老人の話が果たして受け売りであれば、半七のモデルは他にある筈である。もし彼が本人であるならば、半七は実在の人物であるとも云い得る。いずれにしても、わたしはかの老人をモデルにして半七を書いている。住所その他は私の都合で勝手に変更した。
但し「捕物帳」のストーリー全部が、かの老人の口から語られたのではない。他の人々から聞かされた話もまじっている。その話し手をいちいち紹介してはいられないから、ここでは半七のモデルとなった老人を紹介するにとどめて置く。[#地付き](昭和11・8「サンデー毎日」)
[#改ページ]
歯なしの話
七月四日、アメリカ合衆国の独立記念日、それとは何の関係もなしに、左の上の奥歯二枚が俄かに痛み出した。歯の悪いのは年来のことであるが、今度もかなりに痛む。おまけに六日は三十四度という大暑、それやこれやに悩まされて、ひどく弱った。
九日は帝国芸術院会員が初度の顔合せというので、私も文相からの案内を受けて、一旦は出席の返事を出しておきながら、更にそれを取消して、当夜はついに失礼することになった。歯はいよいよ痛んで、ゆるぎ出して、十一日には二枚ながら抜けてしまった。
わたしの母は歯が丈夫で、七十七歳で世を終るまで一枚も欠損せず、硬い煎餅でも何でもバリバリと齧《かじ》った。それと反対に、父は歯が悪かった。ややもすれば歯痛に苦しめられて、上下に幾枚の義歯を嵌《は》め込んでいた。その義歯は柘植《つげ》の木で作られていたように記憶している。私は父の系統をひいて、子供の時から齲歯《むしば》の患
前へ
次へ
全102ページ中96ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング