、どうやら人気になったと云うので、更に森君から続篇をかけと注文され、翌年の一月から六月にわたって又もや六回の捕物帳を書きました。その後も諸雑誌や新聞の注文をうけて、それからそれへと書きつづけたので、捕物帳も案外多量の物となって、今まで発表した物話は四十数篇あります。
 半七老人は実在の人か――それに就いてしばしば問い合せを受けます。勿論、多少のモデルが無いでもありませんが、大体に於いて架空の人物であると御承知ください。おれは半七を知っているとか、半七のせがれは歯医者であるとか、或いは時計屋であるとか、甚《はなは》だしいのはおれが半七であると自称している人もあるそうですが、それは恐らく、同名異人で、わたしの捕物帳の半七老人とは全然無関係であることを断わっておきます。
 前にも云った通り、捕物帳が初めて文芸倶楽部に掲載されたのは大正六年の一月で、今から振り返ると十年余りになります。その文芸倶楽部の誌上に思い出話を書くにつけて、今更のように月日の早いのに驚かされます。[#地付き](昭和2・8「文芸倶楽部」)

     半七招介状

 明治二十四年四月第二日曜日、若い新聞記者が浅草公園弁天山の惣菜《そうざい》(岡田)へ午飯《ひるめし》を食いにはいった。花盛りの日曜日であるから、混雑は云うまでも無い。客と客とが押し合うほどに混み合っていた。
 その記者の隣りに膳をならべているのは、六十前後の、見るから元気のよい老人であった。なにしろ客が立て込んでいるので、女中が時どきにお待遠《まちどお》さまの挨拶をして行くだけで、注文の料理はなかなか運ばれて来《こ》ない。記者は酒を飲まない。隣りの老人は一本の徳利《とくり》を前に置いているが、これも深くは飲まないとみえて、退屈しのぎに猪口《ちょこ》をなめている形である。
 花どきであるから他のお客様はみな景気がいい。酔っている男、笑っている女、賑やかを通り越して騒々《そうぞう》しい位であるが、そのなかで酒も飲まず、しかも独りぼっちの若い記者は唯ぼんやりと坐っているのである。隣りの老人にも連れはない。注文の料理を待っているあいだに、老人は記者に話しかけた。
「どうも賑やかですね。」
「賑やかです。きょうは日曜で天気もよし、花も盛りですから。」と、記者は答えた。
「あなたは酒を飲みませんか。」
「飲みません。」
「わたくしも若いときには少し飲みましたが、年を取っては一向《いっこう》いけません。この徳利《とっくり》も退屈しのぎに列《なら》べてあるだけで……。」
「ふだんはともあれ、花見の時に下戸《げこ》はいけませんね。」
「そうかも知れません。」と、老人は笑った。
「だが、芝居でも御覧なさい。花見の場で酔っ払っているような奴は、大抵お腰元なんぞに嫌われる敵役《かたきやく》で、白塗りの色男はみんな素面《しらふ》ですよ。あなたなんぞも二枚目だから、顔を赤くしていないんでしょう。あははははは。」
 こんなことから話はほぐれて、隣り同士が心安くなった。老人がむかしの浅草の話などを始めた。老人は痩《や》せぎすの中背《ちゅうぜい》で、小粋な風采といい、流暢な江戸弁といい、紛《まぎ》れもない下町の人種である。その頃には、こういう老人がしばしば見受けられた。
「お住居は下町ですか。」と、記者は訊《き》いた。
「いえ、新宿の先で……。以前は神田に住んでいましたが、十四五年前から山の手の場末へ引っ込んでしまいまして……。馬子唄で幕を明けるようになっちゃあ、江戸っ子も型なしです。」と、老人はまた笑った。
 だんだん話しているうちに、この老人は文政《ぶんせい》六年|未年《ひつじどし》の生まれで、ことし六十九歳であるというのを知って、記者はその若いのに驚かされた。
「いえ、若くもありませんよ。」と、老人は云った。「なにしろ若い時分から体《からだ》に無理をしているので、年を取るとがっくり弱ります。もう意気地はありません。でも、まあ仕合せに、口と足だけは達者で、杖も突かずに山の手から観音さままで御参詣に出て来られます。などと云うと、観音さまの罰《ばち》が中《あた》る。御参詣は附けたりで、実はわたくしもお花見の方ですからね。」
 話しながら飯を食って、ふたりは一緒にここを出ると、老人はうららかな空をみあげた。
「ああ、いい天気だ。こんな花見|日和《びより》は珍らしい。わたくしはこれから向島《むこうじま》へ廻ろうと思うのですが、御迷惑でなければ一緒にお出でになりませんか。たまには年寄りのお附合いもするものですよ。」
「はあ、お供しましょう。」
 二人は吾妻橋《あづまばし》を渡って向島へゆくと、ここもおびただしい人出である。その混雑をくぐって、二人は話しながら歩いた。自分はたんとも食わないのであるが、若い道連れに奢《おご》ってくれる積りらしく
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