帯びた人のように見られる。単に、あわただしいと云ってしまえばそれ迄であるが、わたしはその間に生き生きした気分を感じて、いつも愉快に思う。
 汽車の出たあとの静けさ、殊に夜汽車の汽笛のひびきが遠く消えて、見送りの人々などが静かに帰ってゆく。その寂しいような心持もまたわるくない。
 わたしは麹町に長く住んでいるので、秋の宵などには散歩ながら四谷の停車場へ出て行く。この停車場は大でもなく小でもなく、わたしには余り面白くない中くらいのところであるが、それでも汽車の出たあとの静かな気分を味わうことが出来る。堤《どて》の松の大樹の上に冴えた月のかかっている夜などは殊によい。若いときは格別、近年は甚だ出不精になって、旅行する機会もだんだんに少なくなったが、停車場という乾燥無味のような言葉も、わたしの耳にはなつかしく聞えるのである。[#地付き](大正15・8「時事新報」)
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私の机


 ある雑誌社から「あなたの机は」という問合せが来たので、こんな返事をかいて送る。
 天神机――今はあと方もなくなってしまいましたが、私が子供の時代には、まだそれが一般に行なわれていて、手習いをする子は皆それに向かったものです。わたしもその一人でした。今でも「寺子屋」の芝居をみると、何だか昔がなつかしいように思われます。
 これも今はあまり流行《はや》らないようですが、以前は普通に用いる机は桐材が一番よいと云う事になっていました。木肌《きはだ》が柔らかなので、倚りかかる場合その他にも手当りが柔らかでよいと云うのでした。その代りに疵《きず》が付き易い。文鎮をおとしてもすぐに疵が付くというわけですから、少し不注意に取扱うと疵だらけになる。それが桐材の欠点で、自然にすたれて来たのでしょう。それから一閑張《いっかんば》りの机が一時は流行しました。それも柔らかでよいのと、軽くてよいのと、値段が割合に高くないのとで、一時は非常に持て囃《はや》されましたが、何分にも紙を貼ったものであるから傷み易い。水などを零《こぼ》すと、すぐにぶくぶくと膨《ふく》れる。そんな欠点があるので、これもやがて廃《すた》れました。それでもまだ小机やチャブ台用としては幾分か残っているようです。
 わたしは十五のときに一円五十銭で買った桐の机を多年使用していました。下宿屋を二、三度持ちあるいたり、三、四度も転居したりしたので、ほとんど完膚《かんぷ》なしと云うほどに疵だらけになっていましたが、それが使い馴れていて工合《ぐあい》がよいので、ついそのままに使いつづけていました。しかし十五の時に買った机ですから少し小さいのが何分不便で、大きな本など拡げる場合には、机の上をいちいち片付けてかからなければならない。とうとう我慢が出来なくなって、大正十二年の春、近所の家具屋に註文して大きい机を作らせました。木材はなんでもよいと云ったら、※[#「土へん+專」、第3水準1−15−59]《せん》で作って来たので、非常に重い上に実用専一のすこぶる殺風景なものが出来あがりました。その代り、机の上が俄かに広くなったので、仕事をするときに参考書などを幾冊も拡げて置くには便利になった。
 さりとて、三十七、八年も親しんでいた古机を古道具屋の手にわたすにも忍びないので、そのまま戸棚の奥に押し込んで置くと、その年の九月が例の震災で、新旧の机とも灰となってしまいました。新の方に未練はなかったが、旧の方は久しい友達で、若いときからその机の上でいろいろのものを書いた思い出――誰でもそうであろうが、取り分けわれわれのような者は机というものに対していろいろの思い出が多いので、それが灰になってしまったと云うことは、かなりに私のこころを寂しくさせました。
 震災の後、目白の額田六福の家に立ち退いているあいだは、そこの小机を借りて使っていましたが、十月になって麻布へ移転する時、何を措《お》いても机はすぐに入用であるので、高田の四つ家|町《まち》へ行って家具屋をあさり歩きました。勿論、その当時のことであるから択り好みは云っていられない。なんでも机の形をしていれば好《よ》いぐらいの考えで、十二円五十銭の机を買って来た。これも材質は※[#「土へん+專」、第3水準1−15−59]で、それにラックスを塗ったもので、すこぶる頑丈に出来ているのです。もう少し体裁のよいのもあったのですが、私は背が高いので机の脚も高くなければ困る。そういう都合で、脚の高いのを取得《とりえ》に先ずそれを買い込んで、そのまま今日まで使っているわけです。その後にいくらか優《ま》しの机を見つけないでもありませんが、震災以来、三度も居所を変えて、いまだに仮越しの不安定の生活をつづけているのですから、震災記念の安机が丁度相当かとも思って、現にこの原稿もその机の上で書いているような
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