次第です。
 わたしは近眼のせいもありましょうが、机は明るいところに据えなければ、読むことも書くことも出来ません。光線の強いのを嫌う人もありますが、わたしは薄暗いようなところでは何だか頼りないような気がして落着かれません。それですから、一日のうちに幾度も机の位置をかえることがあります。したがって、余りに重い机は持ち運ぶに困るのですが、机にむかった感じを云えば、どうも重くて大きい方がドッシリとして落着かれるようです。チャブ台の上などで原稿をかく人がありますが、私には全然できません。それがために、旅行などをして困ることがあります。
 もう一つ、これは年来の習慣でしょうが、わたしは自宅にいる場合、飯を食うときのほかは机の前を離れたことはほとんどありません。読書するとか原稿を書くとか云うのでなく、ただぼんやりとしているときでも必ず机の前に坐っています。鳥で云えば一種の止まり木とでも云うのでしょう。机の前を離れると、なんだかぐら[#「ぐら」に傍点]付いているようで、自分のからだを持て余してしまうのです。妙な習慣が付いたものです。[#地付き](大正14・9「婦人公論」)
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読書雑感


 なんと云っても此の頃は読書子に取っては恵まれた時代である。円本は勿論、改造文庫、岩波文庫、春陽堂文庫のたぐい、二十銭か三十銭で自分の読みたい本が自由に読まれるというのは、どう考えても有難いことである。
 趣味から云えば、廉価版の安っぽい書物は感じが悪いという。それも一応は尤《もっと》もであるが、読書趣味の普及された時代、本を読みたくても金が無いという人々に取っては、廉価版は確かに必要である。また、著者としても、豪華版を作って少数の人に読まれるよりも、廉価版を作って多数の人に読まれた方がよい。五百人六百人に読まれるよりも、一万人二万人に読まれた方が、著者としては本懐でなければならない。
 それに付けても、わたしたちの若い時代に比べると、当世の若い人たちは確かに恵まれていると思う。わたしは明治五年の生まれで、十七、八歳すなわち明治二十一、二年頃から、三十歳前後すなわち明治三十四、五年頃までが、最も多くの書を読んだ時代であったが、その頃にはもちろん廉価版などというものは無い。第一に古書の翻刻が甚だ少ない。
 したがって、古書を読もうとするには江戸時代の原本を尋《たず》ねなければならない。
 その原本は少ない上に、価《あたい》も廉《やす》くない。わたしは神田の三久(三河屋久兵衛《みかわやきゅうべえ》)という古本屋へしばしばひやかしに行ったが、貧乏書生の悲しさ、読みたい本を見付けても容易に買うことが出来ないのであった。金さえあれば、おれも学者になれるのだと思ったが、それがどうにもならなかった。
 私にかぎらず、原本は容易に獲《え》られず、その価もまた廉くない関係から、その時代には書物の借覧ということが行なわれた。蔵書家に就いてその蔵書を借り出して来るのである。ところが、蔵書家には門外不出を標榜《ひょうぼう》している人が多く、自宅へ来て読むというならば読ませてやるが、貸出しはいっさい断わるというのである。そうなると、その家を訪問して読ませて貰うのほかは無い。
 日曜日のほかに余暇のないわたしは、それからそれへと紹介を求めて諸家を訪問することになったが、それが随分難儀な仕事であった。由来、蔵書家というような人たちは、東京のまん中に余り多く住んでいない。大抵は場末の不便なところに住んでいる。電車の便などのない時代に、本郷小石川や本所深川辺まで尋ねて行くことになると、その往復だけでも相当の時間を費《ついや》してしまうので、肝腎の読書の時間が案外に少ないことになるにはすこぶる困った。
 なにしろ馴染《なじ》みの浅い家へ行って、悠々と坐り込んで書物を読んでいるのは心苦しいことである。蔵書家と云っても、広い家に住んでいるとは限らないから、時には玄関の二畳ぐらいの処に坐って読まされる。時にはまた、立派な座敷へ通されて恐縮することもある。腰弁当で出かけても、碌々《ろくろく》に茶も飲ませてくれない家がある。そうかと思うと、茶や菓子を出して、おまけに鰻飯などを食わせてくれる家がある。その待遇は千差万別で、冷遇はいささか不平であるが、優待もあまりに気の毒でたびたび出かけるのを遠慮するようにもなる。冷遇も困るが、優待も困る。そこの加減がどうもむずかしいのであった。
 そのあいだには、上野の図書館へも通ったが、やはり特別の書物を読もうとすると、蔵書家をたずねる必要が生ずるので、わたしは前に云うような冷遇と優待を受けながら、根《こん》よく方々をたずね廻った。ただ読んでいるばかりでは済まない。時には抜書きをすることもある。万年筆などの無い時代であるから、矢立《やたて》と罫紙《け
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