はゆず湯の男哉
二十二日は寒い雨が降った。二十三日は日曜日で晴れていた。どの日もわたしは早く行ったので、風呂のなかはさのみに混雑していなかったが、ゆず湯というのは名ばかりで、湯に浮かんでいる柚の数のあまりに少ないのにやや失望させられた。それでも新しい湯にほんのりと匂う柚の香は、この頃とかくに尖《とが》り勝ちなわたしの神経を不思議にやわらげて、震災以来初めてほんとうに入浴したような、安らかな爽《さわや》かな気分になった。
麻布で今年の正月をむかえたわたしは、その十五日に再びかなりの強震に逢った。去年の大震で傷んでいる家屋が更に破損して、長く住むには堪えられなくなった。家主も建て直したいというので、いよいよ三月なかばにここを立ち退いて、さらに現在の大久保百人町《おおくぼひゃくにんまち》に移転することになった。いわゆる東移西転、どこにどう落着くか判らない不安をいだきながら、ともかくもここを仮りの宿りと定めているうちに、庭の桜はあわただしく散って、ここらの躑躅《つつじ》の咲きほこる五月となった。その四日と五日は菖蒲湯である。ここでは都湯というのに毎日かよっていたが、麻布のゆず湯とは違って、ここの菖蒲は風呂いっぱいに青い葉をうかべているのが見るから快《こころよ》かった。大かた子供たちの仕事であろうが、青々とぬれた菖蒲の幾束が小桶に挿してあったのも、なんとなく田舎めいて面白かった。四日も五日もあいにくに陰っていたが、これで湯あがりに仰ぎ視る大空も青々と晴れていたら、さらに爽快であろうと思われた。
湯屋は大久保駅の近所にあって、わたしの家からは少し遠いので、真夏になってから困ることが出来た。日盛りに行っては往復がなにぶんにも暑い。ここらは勤め人が多いので、夕方から夜にかけては湯屋がひどく混雑する。
わたしの家に湯殿はあるが、据風呂がないので内湯を焚くわけに行かない。幸いに井戸の水は良いので、七月から湯殿で行水《ぎょうずい》を使うことにした。大盥《おおだらい》に湯をなみなみと湛《たた》えさせて、遠慮なしにざぶざぶ浴びてみたが、どうも思うように行かない。行水――これも一種の俳味を帯びているものには相違ないので、わたしは行水にちなんだ古人の俳句をそれからそれへと繰り出して、努《つと》めて俳味をよび起そうとした。わたしの家の畑には唐もろこしもある、小さい夕顔棚もある、虫の声もきこえる。月並ながらも行水というものに相当した季題の道具立てはまずひと通り揃っているのであるが、どうも一向に俳味も俳趣も泛《う》かび出さない。
行水をつかって、唐もろこしの青い葉が夕風にほの白くみだれているのを見て、わたしは日露戦争の当時、満洲で野天風呂を浴びたことを思い出した。海城、遼陽その他の城内にシナ人の湯屋があるが、城から遠い村落に湯屋というものはない。幸いに大抵の民家には大きい甕《かめ》が一つ二つは据えてあるので、その甕を畑のなかへ持ち出して、高梁《コウリャン》を焚いて湯を沸かした。満洲の空は高い、月は鏡のように澄んでいる。畑には西瓜《すいか》や唐茄子《とうなす》が蔓を這わせて転がっている。そのなかで甕から首を出して鼻唄を歌っていると、まるで狐に化かされたような形であるが、それも陣中の一興《いっきょう》として、その愉快は今でも忘れない。甕は焼き物であるから、湯があまりに沸き過ぎた時、うかつにその縁《ふち》などに手足を触れると、火傷《やけど》をしそうな熱さで思わず飛びあがることもあった。
しかしそれは二十年のむかしである。今のわたしは野天風呂で鼻唄をうたっている勇気はない。行水も思ったほどに風流でない。狭くても窮屈でも、やはり据風呂を買おうかと思っている。そこでまた宿無しが一句うかんだ。
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宿無しが風呂桶を買ふ暑さ哉
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[#地付き](大正13・7「読売新聞」)
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郊外生活の一年
震災以来、諸方を流転して、おちつかない日を送ること一年九ヵ月で、月並の文句ではあるが光陰流水の感に堪えない。大久保へ流れ込んで来たのは十三年の三月で、もう一年以上になる。東京市内に生まれて、東京市内に生活して、郊外というところは友人の家をたずねるか、あるいは春秋の天気のよい日に散歩にでも出かける所であると思っていた者が、測《はか》らずも郊外生活一年の経験を積むことを得たのは、これも震災の賜物《たまもの》と云っていいかも知れない。勿論、その賜物に対してかなりの高価を支払ってはいるが……。
はじめてここへ移って来たのは、三月の春寒《はるさむ》がまだ去りやらない頃で、その月末の二十五、二十六、二十七の三日間は毎日つづいて寒い雨が降った。二十八日も朝から陰って、ときどきに雪を飛ばした。わたしの家の裏庭から北に見渡され
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