る戸山ヶ原には、春らしい青い色はちっとも見えなかった。尾州《びしゅう》侯の山荘以来の遺物かと思われる古木が、なんの風情も無しに大きい枯れ枝を突き出しているのと、陸軍科学研究所の四角張った赤煉瓦《あかれんが》の建築と、東洋製菓会社の工場に聳えている大煙突と、風の吹く日には原一面に白く巻きあがる砂煙りと、これだけの道具を列べただけでも大抵は想像が付くであろう。実に荒涼|索莫《さくばく》、わたしは遠い昔にさまよい歩いた満洲の冬を思い出して、今年の春の寒さがひとしお身にしみるように感じた。
「郊外はいやですね。」と、市内に住み馴れている家内の女たちは云った。
「むむ。どうも思ったほどによくないな。」と、わたしも少しく顔をしかめた。
 省線電車や貨物列車のひびきも愉快ではなかった。陸軍の射的場《しゃてきば》のひびきも随分騒がしかった。戸山ヶ原で夜間演習のときは、小銃を乱射するにも驚かされた。湯屋の遠いことや、買物の不便なことや、いちいち数え立てたらいろいろあるので、わたしも此処《ここ》まで引っ込んで来たのを悔むような気にもなったが、馴れたらどうにかなるだろうと思っているうちに、郊外にも四月の春が来て、庭にある桜の大木二本が満開になった。枝は低い生垣《いけがき》を越えて往来へ高く突き出しているので、外から遠く見あげると、その花の下かげに小さく横たわっている私の家は絵のようにみえた。戸山ヶ原にも春の草が萌《も》え出して、その青々とした原の上に、市内ではこのごろ滅多に見られない大きい鳶《とんび》が悠々と高く舞っていた。
「郊外も悪くないな。」と、わたしはまた思い直した。
 五月になると、大久保名物の躑躅《つつじ》の色がここら一円を俄かに明るくした。躑躅園は一軒も残っていないが、今もその名所のなごりをとどめて、少しでも庭のあるところに躑躅の花を見ないことはない。元来の地味がこの花に適しているのであろうが、大きい木にも小さい株にも皆めざましい花を付けていた。わたしの庭にも紅白は勿論、むらさきや樺色《かばいろ》の変り種も乱れて咲き出した。わたしは急に眼がさめたような心持になって、自分の庭のうちを散歩するばかりでなく、暇さえあれば近所をうろついて、そこらの家々の垣根のあいだを覗《のぞ》きあるいた。
 庭の広いのと空地《あきち》の多いのとを利用して、わたしも近所の人真似に花壇や畑を作った。花壇には和洋の草花の種をめちゃくちゃにまいた。畑には唐蜀黍《とうもろこし》や夏大根の種をまき、茄子《なす》や瓜《うり》の苗を植えた。ゆうがおの種も播《ま》き、へちまの棚も作った。不精者《ぶしょうもの》のわたしに取っては、それらの世話がなかなかの面倒であったが、いやしくも郊外に住む以上、それが当然の仕事のようにも思われて、わたしは朝晩の泥いじりを厭《いと》わなかった。六月の梅雨のころになると、花壇や畑には茎《くき》や蔓《つる》がのび、葉や枝がひろがって、庭一面に濡れていた。
 夏になって、わたしを少しく失望させたのは、蛙《かわず》の一向に鳴かないことであった。筋向うの家の土手下の溝《どぶ》で、二、三度その鳴き声を聴いたことがあったが、そのほかにはほとんど聞えなかった。麹町辺でも震災前には随分その声を聴いたものであるが、郊外のここらでどうして鳴かないのかと、わたしは案外に思った。蛍《ほたる》も飛ばなかった。よそから貰った蛍を庭に放したが、そのひかりはひと晩ぎりで皆どこへか消え失せてしまった。さみだれの夜に、しずかに蛙を聴き、ほたるを眺めようとしていた私の期待は裏切られた。その代りに犬は多い。飼い犬と野良犬がしきりに吠えている。
 幾月か住んでいるうちに、買物の不便にも馴れた。電車や鉄砲の音にも驚かなくなった。湯屋が遠いので、自宅で風呂を焚くことにした。風呂の話は別に書いたが、ゆうぐれの涼しい風にみだれる唐蜀黍の花や葉をながめながら、小さい風呂にゆっくりと浸っているのも、いわゆる郊外気分というのであろうと、暢気《のんき》に悟るようにもなった。しかもそう暢気に構えてばかりもいられない時が来た。八月になると旱《ひでり》つづきで、さなきだに水に乏しいここら一帯の居住者は、水を憂いずにはいられなくなった。どこの家でも井戸の底を覗くようになって、わたしの家主の親類の家などでは、駅を越えた遠方から私の井戸の水を貰いに来た。この井戸は水の質も良く、水の量も比較的に多いので、覿面《てきめん》に苦しむほどのことはなかったが、一日のうちで二時間ないし三時間は汲めないような日もあった。庭の撒水《まきみず》を倹約する日もあった。折角の風呂も休まなければならないような日もあった。わたしも一日に一度ずつは井戸をのぞきに行った。夏ばかりでなく、冬でも少し照りつづくと、ここらは水切れに脅《おびや》かされる
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