災の当時、蔵書も原稿もみな焼かれてしまったのであるが、それでもいよいよ立ち退くというまぎわに、書斎の戸棚の片隅に押し込んである雑誌や新聞の切抜きを手あたり次第にバスケットへつかみ込んで来た。それから紀尾井町、目白、麻布と転々する間に、そのバスケットの底を丁寧に調べてみる気も起らなかったが、麻布にひとまず落着いて、はじめてそれを検査すると、幾束かの切抜きがあらわれた。それは何かの参考のために諸新聞や雑誌を切り抜いて保存して置いたもので、自分自身の書いたものは二束に過ぎないばかりか、戯曲や小説のたぐいは一つもない、すべてが随筆めいた雑文ばかりである。その随筆も勿論全部ではない、おそらく三分の一か四分の一ぐらいでもあろうかと思われた。
 それだけでも掴み出して来たのは、せめてもの幸いであったと思うにつけて、一種の記念としてそれらを一冊に纏めてみようかと思い立ったが、何かと多忙に取りまぎれて、きょうまで其の儘《まま》になっていたのである。これも失われずに残されている物であると思うと、わたしは急になつかしくなって、その切抜きをいちいちにひろげて読みかえした。
 わたしは今まで随分たくさんの雑文をかいている。その全部のなかから撰み出したらば、いくらか見られるものも出来るかと思うのであるが、前にもいう通り、手あたり次第にバスケットへつかみ込んで来たのであるから、なかには書き捨ての反古《ほご》同様なものもある。その反古も今のわたしにはまた捨て難い形見のようにも思われるので、なんでもかまわずに掻きあつめることにした。
 こうなると、急に気ぜわしくなって、すぐにその整理に取りかかると、冬の日は短い。おまけに午後には二、三人の来客があったので、一向に仕事は捗取らず、どうにか斯《こ》うにか片付いたのは夜の九時頃である。それでも門前には往来の足音が忙がしそうに聞える。北の窓をあけて見ると、大通りの空は灯のひかりで一面に明るい。明治座は今夜も夜業《よなべ》をしているのであろうなどとも思った。
 さて纏まったこの雑文集の名をなんと云っていいか判らない。今の仮住居の地名をそのままに、仮に『十番随筆』ということにして置いた。これもまた記念の意味にほかならない。[#地付き](昭和12・10刊『思い出草』所収)
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風呂を買うまで


 わたしは入浴が好きで、大正八年の秋以来あさ湯の廃止されたのを悲しんでいる一人である。浅草千束町《あさくさせんぞくまち》辺の湯屋では依然として朝湯を焚くという話をきいて、山の手から遠くそれを羨《うらや》んでいたのであるが、そこも震災後はどうなったか知らない。
 わたしが多年ゆき馴れた麹町の湯屋の主人は、あさ湯廃止、湯銭値上げなどという問題について、いつも真っさきに立って運動する一人であるという噂を聞いて、どうもよくない男だとわたしは自分勝手に彼を呪《のろ》っていたのであるが、呪われた彼も、呪ったわたしも、時をおなじゅうして震災の火に焼かれてしまった。その後わたしは目白に一旦立ち退いて、雑司ヶ谷《ぞうしがや》の鬼子母神《きしもじん》附近の湯屋にゆくことになった。震災後どこの湯屋も一週間ないし十日間休業したが、各組合で申し合せでもしたのか知れない、再び開業するときには大抵その初日と二日目とを無料入浴デーにしたのが多い。わたしも雑司ヶ谷の御園湯《みそのゆ》という湯屋でその二日間無料の恩恵を蒙った。恩恵に浴すとはまったく此の事であろう。それから十月の初めまで私は毎日この湯にかよっていた。九月二十五日は旧暦の十五夜で、わたしはこの湯屋の前で薄《すすき》を持っている若い婦人に出逢った。その婦人もこの近所に避難している人であることを予《かね》て知っているので、薄《うす》ら寒い秋風に靡《なび》いているその薄の葉摺れが、わたしの暗いこころをひとしお寂しくさせたことを記憶している。
 わたしはそれから河野義博君の世話で麻布の十番に近いところに貸家を見つけて、どうにか先ず新世帯を持つことになった。十番は平生でも繁昌している土地であるが、震災後の繁昌と混雑はまた一層甚だしいものであった。ここらにも避難者がたくさん集まっているので、どこの湯屋も少しおくれて行くと、芋を洗うような雑沓《ざっとう》で、入浴する方が却って不潔ではないかと思われるくらいであったが、わたしはやはり毎日かかさずに入浴した。ここでは越《こし》の湯《ゆ》と日の出湯というのにかよって、十二月二十二、二十三の両日は日の出湯で柚《ゆず》湯にはいった。わたしは二十何年ぶりで、ほかの土地のゆず湯を浴びたのである。柚湯、菖蒲《しょうぶ》湯、なんとなく江戸らしいような気分を誘い出すもので、わたしは「本日ゆず湯」のビラをなつかしく眺めながら、湯屋の新しい硝子戸をくぐった。

  宿無しも今日
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