その頃の車夫にはなかなか芝居の消息を諳《そら》んじている者もあって、今度の新富チョウは評判がいいとか、猿若マチは景気がよくないとか、車上の客に説明しながら挽《ひ》いてゆくのをしばしば聞いた。
秋の真昼の日かげはまだ暑いが、少年もその父も帽子をかぶっていない。姉は小さい扇を額《ひたい》にかざしている。かれらは幕のあいだに木戸の外を散歩しているのである。劇場内に運動場を持たないその頃の観客は、窮屈な土間《どま》に行儀好くかしこまっているか、茶屋へ戻って休息するか、往来をあるいているかのほかはないので、天気のよい日にはぞろぞろとつながって往来に出る。帽子をかぶらずに、紙捻りの太い鼻緒の草履をはいているのは、芝居見物の人であることが証明されて、それが彼らの誇りでもあるらしい。少年も芝居へくるたびに必ず買うことに決めているらしい辻占せんべいと八橋《やつはし》との籠《かご》をぶら下げて、きわめて愉快そうに徘徊《はいかい》している。彼らにかぎらず、すべて幕間《まくあい》の遊歩に出ている彼らの群れは、東京の大通りであるべき京橋《きょうばし》区新富町の一部を自分たちの領分と心得ているらしく、摺《す》れ合い摺れちがって往来のまん中を悠々と散歩しているが、角の交番所を守っている巡査もその交通妨害を咎《とが》めないらしい。土地の人たちも決して彼らを邪魔者とは認めていないらしい。
やがて舞台の奥で柝《き》の音《ね》がきこえる。それが木戸の外まで冴えてひびき渡ると、遊歩の人々は牧童の笛をきいた小羊の群れのように、皆ぞろぞろと繋《つな》がって帰ってゆく。茶屋の若い者や出方《でかた》のうちでも、如才《じょさい》のないものは自分たちの客をさがしあるいて、もう幕があきますと触れてまわる。それにうながされて、少年もその父もその姉もおなじく急いで帰ろうとする。少年はぶら下げていた煎餅の籠を投げ出すように姉に渡して、一番さきに駈け出してゆく。柝の音はつづいて聞えるが、幕はなかなかあかない。最初からかしこまっていた観客は居ずまいを直し、外から戻って来た観客はようやく元の席に落ちついた頃になっても、舞台と客席とをさえぎる華やかな大きい幕は猶《なお》いつまでも閉じられて、舞台の秘密を容易に観客に示そうとはしない。しかも観客は一人も忍耐力を失わないらしい。幽霊の出るまえの鐘の音、幕のあく前の拍子木の音、いずれも観客の気分を緊張させるべく不可思議の魅力をたくわえているのである。少年もその柝の音の一つ一つを聴くたびに、胸を跳《おど》らせて正面をみつめている。
幕があく。「妹背山婦女庭訓《いもせやまおんなていきん》」吉野川《よしのがわ》の場である。岩にせかれて咽《むせ》び落ちる山川を境いにして、上《かみ》の方《かた》の背山にも、下《しも》の方の妹山《いもやま》にも、武家の屋形がある。川の岸には桜が咲きみだれている。妹山の家には古風な大きい雛段《ひなだん》が飾られて、若い美しい姫が腰元どもと一緒にさびしくその雛にかしずいている。背山の家には簾《すだれ》がおろされてあったが、腰元のひとりが小石に封じ文《ぶみ》をむすび付けて打ち込んだ水の音におどろかされて、簾がしずかに巻きあげられると、そこにはむらさきの小袖に茶宇《ちゃう》の袴をつけた美少年が殊勝《しゅしょう》げに経巻《きょうかん》を読誦《どくじゅ》している。高島《たかしま》屋ァとよぶ声がしきりに聞える。美少年は市川|左団次《さだんじ》の久我之助《こがのすけ》である。
姫は太宰《だざい》の息女|雛鳥《ひなどり》で、中村|福助《ふくすけ》である。雛鳥が恋びとのすがたを見つけて庭に降りたつと、これには新駒《しんこま》屋ァとよぶ声がしきりに浴びせかけられたが、かれの姫はめずらしくない。左団次が前髪立ちの少年に扮して、しかも水のしたたるように美しいというのが観客の眼を奪ったらしい。少年の父も唸るような吐息を洩らしながら眺めていると、舞台の上の色や形はさまざまの美しい錦絵をひろげてゆく。
背山の方《かた》は大判司清澄《だいはんじきよずみ》――チョボの太夫の力強い声によび出されて、仮《かり》花道にあらわれたのは織物の※[#「ころもへん+上」、第4水準2−88−9]※[#「ころもへん+下」、第4水準2−88−10]《かみしも》をきた立派な老人である。これこそほんとうに昔の錦絵から抜け出して来たかと思われるような、いかにも役者らしい彼の顔、いかにも型に嵌《はま》ったような彼の姿、それは中村|芝翫《しかん》である。同時に、本花道からしずかにあゆみ出た切り髪の女は太宰《だざい》の後室《こうしつ》定高《さだか》で、眼の大きい、顔の輪郭のはっきりして、一種の気品をそなえた男まさりの女、それは市川|団十郎《だんじゅうろう》である。大判司に対して、成駒
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