つの時代が劃《かく》されていた。それは明治の初年から二十七、八年の日清戦争までと、その後の今年までとで、政治経済の方面から日常生活の風俗習慣にいたるまでが、おのずからに前期と後期とに分かたれていた。
 明治の初期にはいわゆる文明開化の風が吹きまくって、鉄道が敷かれ、瓦斯《ガス》燈がひかり、洋服や洋傘傘《こうもりがさ》やトンビが流行しても、詮《せん》ずるにそれは形容ばかりの進化であって、その鉄道に乗る人、瓦斯燈に照らされる人、洋服を着る人、トンビを着る人、その大多数はやはり江戸時代から食《は》み出して来た人たちである事を記憶しなければならない。わたしは明治になってから初めて此の世の風に吹かれた人間であるが、そういう人たちにはぐくまれ、そういう人たちに教えられて生長した。すなわち旧東京の前期の人である。それだけに、遠い江戸歌舞伎の夢を追うには聊《いささ》か便りのよい架け橋を渡って来たとも云い得られる。しかし、その遠いむかしの夢の夢の世界は、単に自分のあこがれを満足させるにとどまって、他人にむかっては語るにも語られない夢幻の境地である。わたしはそれを語るべき詞《ことば》を知らない。
 しかし、その夢の夢をはなれて、自分がたしかに踏《ふ》み渡って来た世界の姿であるならば、たといそれがやはり一場の過去の夢にすぎないとしても、私はその夢の世界を明らかに語ることが出来る。老いさらばえた母をみて、おれは曾《かつ》てこの母の乳を飲んだのかと怪しく思うようなことがあっても、その昔の乳の味はやはり忘れ得ないとおなじように、移り変った現在の歌舞伎の世界をみていながらも、わたしはやはり昔の歌舞伎の夢から醒《さ》め得ないのである。母の乳のぬくみを忘れ得ないのである。
 その夢は、いろいろの姿でわたしの眼の前に展開される。

 劇場は日本一の新富座《しんとみざ》、グラント将軍が見物したという新富座、はじめて瓦斯燈を用いたという新富座、はじめて夜芝居を興行したという新富座、桟敷《さじき》五人詰|一間《ひとま》の値《あた》い四円五十銭で世間をおどろかした新富座――その劇場のまえに、十二、三歳の少年のすがたが見いだされる。少年は父と姉とに連れられている。かれらは紙捻《かみよ》りでこしらえた太い鼻緒の草履《ぞうり》をはいている。
 劇場の両側には六、七軒の芝居茶屋がならんでいる。そのあいだには芝居みやげの菓子や、辻占《つじうら》せんべいや、花かんざしなどを売る店もまじっている。向う側にも七、八軒の茶屋がならんでいる。どの茶屋も軒には新しい花暖簾《はなのれん》をかけて、さるや[#「さるや」に傍点]とか菊岡《きくおか》とか梅林《ばいりん》とかいう家号を筆太《ふでぶと》にしるした提灯がかけつらねてある。劇場の木戸まえには座主《ざぬし》や俳優《やくしゃ》に贈られたいろいろの幟《のぼり》が文字通りに林立している。その幟のあいだから幾枚の絵看板が見えがくれに仰がれて、木戸の前、茶屋のまえには、幟とおなじ種類の積み物が往来へはみ出すように積みかざられている。
 ここを新富町《しんとみちょう》だの、新富座だのと云うものはない。一般に島原《しまばら》とか、島原の芝居とか呼んでいた。明治の初年、ここに新島原の遊廓が一時栄えた歴史をもっているので、東京の人はその後も島原の名を忘れなかったのである。
 築地《つきじ》の川は今よりも青くながれている。高い建物のすくない町のうえに紺青《こんじょう》の空が大きく澄んで、秋の雲がその白いかげをゆらゆらと浮かべている。河岸《かし》の柳は秋風にかるくなびいて、そこには釣りをしている人もある。その人は俳優の配りものらしい浴衣《ゆかた》を着て、日よけの頬かむりをして粋《いき》な莨入《たばこい》れを腰にさげている。そこには笛をふいている飴《あめ》屋もある。その飴屋の小さい屋台店の軒には、俳優の紋どころを墨や丹《あか》や藍《あい》で書いた庵《いおり》看板がかけてある。居付きの店で、今川焼を売るものも、稲荷鮓《いなりずし》を売るものも、そこの看板や障子や暖簾には、なにかの形式で歌舞伎の世界に縁のあるものをあらわしている。仔細《しさい》に検査したら、そこらをあるいている女のかんざしも扇子も、男の手拭も団扇《うちわ》も、みな歌舞伎に縁の離れないものであるかも知れない。
 こうして、築地橋から北の大通りにわたるこの一町内はすべて歌舞伎の夢の世界で、いわゆる芝居町《しばいまち》の空気につつまれている。もちろん電車や自動車や自転車や、そうした騒雑な音響をたてて、ここの町の空気をかき乱すものは一切《いっさい》通過しない。たまたま此処《ここ》を過ぎる人力車があっても、それは徐《しず》かに無言で走ってゆく。あるものは車をとどめて、乗客も車夫もしばらくその絵看板をながめている。
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