に其の恩人にむかって礫《つぶて》を投げる。どんぐりは笑い声を出してからから[#「からから」に傍点]と落ちて来る。湿《ぬ》れた泥と一緒につかんで懐ろに入れる。やがてまた雨が降って来る。私たちは木の蔭へまた逃げ込む。
そんなことを繰り返しているうちに、着物は湿《ぬ》れる、手足は泥だらけになる。家《うち》へ帰って叱られる。それでも其の面白さは忘れられなかった。その樫の木は今でもある。その頃の友達はどこへ行ってしまったか、近所にはほとんど一人も残っていない。
大綿
時雨のふる頃には、もう一つの思い出がある。沼波瓊音《ぬなみけいおん》氏の「乳のぬくみ」を読むと、その中にオボーと云う虫に就いて、作者が幼い頃の思い出が書いてあった。蓮《はす》の実を売る地蔵盆の頃になると、白い綿のような物の着いている小さい羽虫が町を飛ぶのが怖ろしく淋しいものであった。これを捕《とら》える子供らが「オボー三尺|下《さ》ン[#「ン」は小書き]がれよ」という、極めて幽暗な唄を歌ったと記してあった。
作者もこのオボーの本名を知らないと云っている。わたしも無論知っていない。しかし此の記事を読んでいるうちに、私も何だか悲しくなった。私もこれによく似た思い出がある。それが測らずも此の記事に誘い出されて、幼い昔がそぞろに懐かしくなった。
名古屋《なごや》の秋風に飛んだ小さい羽虫とほとんど同じような白い虫が東京にもある。瓊音氏も東京で見たと書いてあった。それと同じものであるかどうかは知らないが、私の知っている小さい虫は俗に「大綿《おおわた》」と呼んでいる。その羽虫は裳《もすそ》に白い綿のようなものを着けているので、綿という名をかぶせられたものであろう。江戸時代からそう呼ばれているらしい。秋も老いて、むしろ冬に近い頃から飛んで来る虫で、十一月から十二月頃に最も多い。赤とんぼの影が全く尽きると、入れ替って大綿が飛ぶ。子供らは男も女も声を張りあげて「大綿来い/\飯《まま》食わしょ」と唄った。
オボーと同じように、これも夕方に多く飛んで来た。殊に陰った日に多かった。時雨を催した冬の日の夕暮れに、白い裳を重そうに垂れた小さい虫は、細かい雪のようにふわふわと迷って来る。飛ぶと云うよりも浮かんでいると云う方が適当かも知れない。彼はどこから何処へ行くともなしに空中に浮かんでいる。子供らがこれを追い捕えるのに、男も女も長い袂《たもと》をあげて打つのが習いであった。
その頃は男の児も筒袖《つつそで》は極めて少なかった。筒袖を着る者は裏店《うらだな》の子だと卑しまれたので、大抵の男の児は八《や》つ口《くち》の明いた長い袂をもっていた。私も長い袂をあげて白い虫を追った。私の八つ口には赤い切《きれ》が付いていた。
それでも男の袂は女より短かった。大綿を追う場合にはいつも女の児に勝利を占められた。さりとて棒や箒《ほうき》を持ち出す者もなかった。棒や箒を揮《ふる》うには、相手が余りに小さく、余りに弱々しいためであったろう。
横町で鮒《ふな》売りの声がきこえる。大通りでは大綿来い/\の唄がきこえる。冬の日は暗く寂しく暮れてゆく。自分が一緒に追っている時はさのみにも思わないが、遠く離れて聞いていると、寒い寂しいような感じが幼い心にも沁《し》み渡った。
日が暮れかかって大抵の子供はもう皆んな家へ帰ってしまったのに、子守をしている女の児一人はまだ往来にさまよって「大綿来い/\」と寒そうに唄っているなどは、いかにも心細いような悲しいような気分を誘い出すものであった。
その大綿も次第に絶えた。赤とんぼも昔に較べると非常に減ったが、大綿はほとんど見えなくなったと云ってもよい。二、三年前に靖国神社の裏通りで一度見たことがあったが、そこらにいる子供たちは別に追おうともしていなかった。外套《がいとう》の袖で軽く払うと、白い虫は消えるように地に落ちた。わたしは子供の時の癖が失《う》せなかったのである。[#地付き](明治43・11俳誌「木太刀」、その他)
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島原の夢
「戯場訓蒙図彙《しばいきんもうずい》」や「東都歳事記《とうとさいじき》」や、さてはもろもろの浮世絵にみる江戸の歌舞伎《かぶき》の世界は、たといそれがいかばかり懐かしいものであっても、所詮《しょせん》は遠い昔の夢の夢であって、それに引かれ寄ろうとするにはあまりに縁が遠い。何かの架け橋がなければ渡ってゆかれないような気がする。その架け橋は三十年ほど前からほとんど断えたと云ってもいい位に、朽ちながら残っていた。それが今度の震災と共に、東京の人と悲しい別離《わかれ》をつげて、架け橋はまったく断えてしまったらしい。
おなじ東京の名をよぶにも、今後はおそらく旧東京と新東京とに区別されるであろう。しかしその旧東京にもまた二
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