《なりこま》屋ァの声が盛んに湧くと、それを圧倒するように、定高に対して成田《なりた》屋ァ、親玉ァの声が三方からどっと起る。
大判司と定高は花道で向い合った。ふたりは桜の枝を手に持っている。
「畢竟《ひっきょう》、親の子のと云うは人間の私《わたくし》、ひろき天地より観るときは、おなじ世界に湧いた虫。」と、大判司は相手に負けないような眼をみはって空うそぶく。
「枝ぶり悪き桜木は、切って接《つ》ぎ木をいたさねば、太宰の家《いえ》が立ちませぬ。」と、定高は凛《りん》とした声で云い放つ。
観客はみな酔ってしまったらしく、誰ももう声を出す者もない。少年も酔ってしまった。かれは二時間にあまる長い一幕の終るまで身動きもしなかった。
その島原の名はもう東京の人から忘れられてしまった。周囲の世界もまったく変化した。妹背山の舞台に立った、かの四人の歌舞伎|俳優《やくしゃ》のうちで、三人はもう二十年も前に死んだ。わずかに生き残るものは福助の歌右衛門《うたえもん》だけである。新富座も今度の震災で灰となってしまった。一切の過去は消滅した。
しかも、その当時の少年は依然として昔の夢をくり返して、ひとり楽しみ、ひとり悲しんでいる。かれはおそらく其の一生を終るまで、その夢から醒める時はないのであろう。[#地付き](大正12・11「随筆」)
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昔の小学生より
十月二十三日、きょうは麹町尋常小学校同窓会の日である。どこの小学校にも同窓会はある。ここにも勿論同窓会を有《ゆう》していたのであるが、何かの事情でしばらく中絶していたのを、震災以後、復興の再築が竣工して、いよいよこの九月から新校舎で授業をはじめることになったので、それを機会に同窓会もまた復興されて、きょうは新しい校内でその第一回を開くことになった。その発起人のうちに私の名も列《つら》なっている。巌谷小波《いわやさざなみ》氏兄弟の名もみえる。そのほかにも軍人、法律家、医師、実業家、種々の階級の人々の名が見いだされた。なにしろ、五十年以上の歴史を有している小学校であるから、それらの発起人以外、種々の方面から老年、中年、青年、少年の人々が参加することであろうと察せられる。
それにつけて、わたしの小学校時代のむかしが思い出される。わたしは明治五年十月の生まれで、明治十七年の四月に小学を去って、中学に転じたのであるから、わたしの小学校時代は今から四十幾年のむかしである。地方は知らず、東京の小学校が今日のような形を具《そな》えるようになったのは、まず日清戦争以後のことで、その以前、すなわち明治初年の小学校なるものは、建物といい、設備といい、ほとんど今日の少年または青年諸君の想像し得られないような不体裁のものであった。
ひと口に麹町小学校出身者と云いながら、巌谷小波氏やわたしの如きは実は麹町小学校という学校で教育を受けたのではない。その当時、いわゆる公立の小学校は麹町の元園町に女学校というのがあり、平河町《ひらかわちょう》に平河小学校というのがあって、その附近に住んでいる我々はどちらかの学校へ通学しなければならないのであった。女学校と云っても女の子ばかりではなく、男の生徒をも収容するのであったが、女学校という名が面白くないので、距離はすこし遠かったが私は平河小学校にかよっていた。その二校が後に併合されて、今日の麹町尋常小学校となったのであるから、校舎も又その位置も私たちの通学当時とはまったく変ってしまった。したがって、母校とは云いながら、私たちに取っては縁の薄い方である。
そのほかに元園町に堀江小学、山元町《やまもとちょう》に中村小学というのがあって、いわゆる代用小学校であるが、その当時は私立小学校と呼ばれていた。この私立の二校は江戸時代の手習指南所《てならいしなんじょ》から明治時代の小学校に変ったものであるから、在来の関係上、商人や職人の子弟は此処《ここ》に通うものが多かった。公立の学校よりも、私立の学校の方が、先生が物柔らかに親切に教えてくれるとかいう噂もあったが、わたしは私立へ行かないで公立へ通わせられた。
その頃の小学校は尋常と高等とを兼ねたもので、初等科、中等科、高等科の三種にわかれていた。初等科は六級、中等科は六級、高等科は四級で、学年制度でないから、初学の生徒は先ず初等科の第六級に編入され、それから第五級に進み、第四級にすすむという順序で、初等科第一級を終ると中等科第六級に編入される。但《ただ》し高等科は今日の高等小学とおなじようなものであったから、小学校だけで済ませるものは格別、その以上の学校に転じるものは、中等科を終ると共に退学するのが例であった。
進級試験は一年二回で、春は四月、秋は十月に行なわれた。それを定期試験といい、俗に大試験と呼んでいた。それであるか
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