って、私も多少の助言をして、二十分ばかりでともかくも其の唄の件《くだり》だけを全部書き直して渡した。すると、つづいて番附のカタリをすぐに書いてくれと云った。そうして「これは立作者《たてつくり》の役ですから」と、おなじく皮肉らしく云った。我々はすぐにカタリを書いて渡した。すると、先に渡した唄をまた持って来て一、二ヵ所の訂正を求めた。
「こんなべらぼうな文句じゃ踊れないと橘屋《たちばなや》が云いますから」と、その作者はべらぼう[#「べらぼう」に傍点]という詞《ことば》に力を入れて云った。
 金助を勤める家橘が果たしてそう云ったかどうだか知らないが、ともかくも其の作者は家橘がそう云った事として我々に取次いだ。べらぼう[#「べらぼう」に傍点]と云われて、我々もさすがにむっ[#「むっ」に傍点]とした。榎本君に注意されたのはここだなと私は思った。いっそ脚本を取り返して帰ろうかと二人は相談したが、その時は鬼太郎君よりも私は軟派であった。もう一つには、榎本君の注意が頭に泌みているせいでもあろう。結局、鬼太郎君を宥《なだ》めてべらぼうの屈辱を甘んじて受けることになった。そうして、先方の註文通りに再び訂正することになった。
 それは暮れの二十七日で、二人が歌舞伎座を出たのは夜の八時過ぎであった。晴れた晩で、銀座の町は人が押し合うように賑わっていたが、わたしは何だか心寂しかった。銀座で鬼太郎君に別れた。その頃はまだ電車が無いので、私は暗い寒い堀端《ほりばた》を徒歩で麹町《こうじまち》へ帰った。前に云った宮戸座の時は、ほんの助手に過ぎないのであって、曲がりなりにも自分たちが本当に書いたものを上場されるのは今度が初めてである。私は嬉《うれ》しい筈であった。嬉しいと感じるのが当り前だと思った。しかし私はなんだか寂しかった。いっそ脚本を撤回してしまえばよかったなどとも考えた。
「もう脚本は書くまい。」
 わたしはお堀の暗い水の上で啼いている雁《がん》の声を聴きながら、そう思った。
 正月になって、歌舞伎座がいよいよ開場すると、我々の二番目もさのみ不評ではなかった。勿論、こんにちから観れば冷汗が出るほどに、俗受けを狙った甘いものであるから、ひどい間違いはなかったらしい。評判が悪くないので、わたしはお堀の雁の声をもう忘れてしまって、つづけて何か書こうかなどと鬼太郎君とも相談したことがあった。しかし、そうは問屋で卸《おろ》さなかった。鉄の門は再び閉められてしまった。我々は再びもとの袖萩になってしまった。なんでも我々の脚本を上場したと云うことが作者部屋の問題になって、外部の素人の作を上場するほどなら、自分たちの作も続々上場して貰いたいとか云う要求を提出されて、井上氏もその鎮圧に苦しんだとか聞いている。そんな事情で、われら素人の脚本はもう歌舞伎座で上演される見込みは絶えてしまった。
 その当時に帝国劇場はなかった。新富座はたしか芝鶴《しかく》が持主で、又五郎《またごろう》などの一座で興行をつづけていて、ここではとても新しい脚本などを受付けそうもなかった。
「差当り芝居を書く見込みはない。」
 わたしは一旦あきらめた。その頃は雑誌でも脚本を歓迎してくれなかった。いよいよ上演と決まった脚本でなければ掲載してくれなかった。どっちを向いても、脚本を書くなどと云うことは無駄な努力であるらしく思われた。私も脚本を断念して、小説を書こうと思い立った。
 明治三十六年に菊五郎と団十郎とが年を同じゅうして死んだ。これで劇界は少しく動揺するだろうと窺っていると、内部はともあれ、表面にはやはりいちじるしい波紋を起さなかった。私はいよいよ失望した。三十七年には日露戦争が始まった。その四月に歌舞伎座で森鴎外《もりおうがい》博士の「日蓮辻説法《にちれんつじせっぽう》」が上場された。恐らくそれは舎弟の三木竹二《みきたけじ》君の斡旋《あっせん》に因《よ》るものであろうが、劇界では破天荒の問題として世間の注目を惹《ひ》いた。戦争中にも拘らず、それが一つの呼物になったのは事実であった。
 その頃から私は従軍記者として満洲へ出張していたので、内地の劇界の消息に就いてはなんにも耳にする機会がなかった。その年の八月に左団次の死んだことを新聞紙上で僅《わず》かに知ったに過ぎなかった。実際、軍国の劇壇には余りいちじるしい出来事も無かったらしかった。

 明治三十八年五月、わたしが戦地から帰った後に、各新聞社の演劇担当記者らが集まって、若葉会という文士劇を催した。今日では別に珍しい事件でも何でもないが、その当時にあっては、これは相当に世間の注目を惹《ひ》くべき出来事であった。第一回は歌舞伎座で開かれて、わたしが第一の史劇「天目山《てんもくさん》」二幕を書いた。そのほかには、かの「日蓮辻説法」も上演された。これが私
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