能の状態にあった。劇場当事者の方でも強《し》いて求めようとはしなかった。いわゆる玄人と素人との間には大いなる溝《みぞ》があった。
もう一つには、団菊左《だんきくさ》と云うような諸名優が舞台を踏まえていて、たとい脚本そのものはどうであろうとも、これらの技芸に対する世間の信仰が相当の観客を引き寄せるに何らの不便を感ぜしめなかったからである。こういう種々の原因が絡《から》み合って、内部と外部との中間には、袖萩《そではぎ》が取りつくろっている小柴垣《こしばがき》よりも大きい関が据えられて、戸を叩くにも叩かれぬ鉄《くろがね》の門が高く鎖《と》ざされていたのであった。
「どうぞお慈悲にただ一言《ひとこと》……。」
お君《きみ》の袖乞いことばを真似るのが忌《いや》な者は、黙って門の外に立っているよりほかはなかった。
ところが、やがて其の厳しい門を押し破って、和田《わだ》合戦の板額《はんがく》のように闖入《ちんにゅう》した勇者があらわれた。その闖入者は松居松葉《まついしょうよう》君であった。この門破りが今日の人の想像するような、決して容易なものではない。松葉君の悪戦は実に想像するに余りある位で、彼はブラツデーネスになったに相違ない。そうして明治三十二年の秋に、明治座で史劇「悪源太《あくげんた》」を上場することになった。俳優は初代の左団次《さだんじ》一座であった。続いて三十四年の秋に、同じく明治座で「源三位《げんざんみ》」を書いた。つづいて「後藤又兵衛《ごとうまたべえ》」や「敵国降伏」や「ヱルナニー」が出た。
「素人の書いたものでも商売になる。」
こういう理屈がいくらか劇場内部の人たちにも理解されるようになって来た。わたしは松葉君よりも足かけ四年おくれて、明治三十五年の歌舞伎座一月興行に「金鯱噂高浪《こがねのしゃちうわさのたかなみ》」という四幕物を上場することになった。これに就《つ》いては岡鬼太郎《おかおにたろう》君が大いに力がある。その春興行には五世|菊五郎《きくごろう》が出勤する筈であったが、病気で急に欠勤することになって、一座は芝翫《しかん》(後の歌右衛門《うたえもん》)、梅幸《ばいこう》、八百蔵《やおぞう》(後の中車《ちゅうしゃ》)、松助《まつすけ》、家橘《かきつ》(後の羽左衛門《うざえもん》)、染五郎《そめごろう》(後の幸四郎《こうしろう》)というような顔触れで、二番目は円朝《えんちょう》物の「荻江《おぎえ》の一節《ひとふし》」と内定していたのであるが、それも余り思わしくないと云うので、当時の歌舞伎座専務の井上竹二郎《いのうえたけじろう》氏から何か新しいものはあるまいかと鬼太郎君に相談をかけると、鬼太郎君は引受けた。かねて條野採菊翁と私の三人合作で書いてみようと云っていた「金鯱」というものがあるので、鬼太郎君は其の筋立てをすぐに話すと、井上氏はそれを書いて見せてくれと云った。
それはかの柿《かき》の木金助《ききんすけ》が紙鳶《たこ》に乗って、名古屋の城の金の鯱鉾《しゃちほこ》を盗むという事実を仕組んだもので、鬼太郎君は序幕と三幕目を書いた。三幕目は金助が鯱鉾を盗むところで、家橘の金助が常磐津《ときわづ》を遣《つか》って奴凧《やっこだこ》の浄瑠璃めいた空中の振事《ふりごと》を見せるのであった。わたしは二幕目の金助の家を書いた。ここはチョボ入りの世話場《せわば》であった。採菊翁は最後の四幕目を書く筈であったが、半途で病気のために筆を執ることが出来なくなったので、私が年末の急稿でそのあとを綴《と》じ合せた。
この脚本を上演するに就いては、内部では相当に苦情があったらしく聞いている。俳優側からも種々の訂正が持ち出されたらしい。しかし井上氏は頑《がん》として受付けなかった。この二番目の脚本にはいっさい手を着けてはならないと云い渡した。そうして、とうとうそれを押し通してしまった。
井上氏はその当時にあって、実に偉い人であったと思う。
その演劇《しばい》は正月の八日が初日であったように記憶している。その前年の暮れに、私が途中で榎本君に逢うと、彼は笑いながら「君、怒っちゃいけないよ」と云った。果たして稽古の際に楽屋へ行くと、我々の不愉快を誘い出すようなことが少なくなかった。手を着けてはならないと井上氏が宣告して置いたにも拘《かかわ》らず、俳優《やくしゃ》や座付作者たちから種々の訂正を命ぜられた。我々もよんどころなく承諾した。三幕目の常磐津は座の都合で長唄に変更することになったのは我々もかねて承知していたが、狂言作者の一人は脚本を持って来て「これをどうぞ長唄にすぐ書き直してください」と、皮肉らしく云った。つまりお前たちに常磐津と長唄とが書き分けられるかと云う肚《はら》であったらしい。我々も意地になって承知した。その場で鬼太郎君が筆を執
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