やまぶき》は一重が多いと見えて、みんな黒い実を着けていました。
 よくは判りませんが、一旦くだってから更に半里ぐらいも登ったでしょう。坂路はよほど急になって、仰げば高い窟《いわや》の上に一本の大きな杉の木が見えました。これが中《なか》の嶽《たけ》の一本杉と云うので、われわれは既に第二の金洞山《きんとうざん》に踏み入っていたのです。金洞山は普通に中の嶽と云うそうです。ここから第三の金※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]山《きんけいざん》は真正面に見えるのだそうですが、この時に霧はいよいよ深くなって来て、正面の山どころか、自分が今立っている所の一本杉の大樹さえも、半分から上は消えるように隠れてしまって、枝をひろげた梢は雲に駕《の》る妖怪のように、不思議な形をしてただ朦朧《もうろう》と宙に泛《う》かんでいるばかりです。峰も谷も森も、もうなんにも見えなくなってしまいました。「山あひの霧はさながら海に似て」という古人の歌に嘘はありません。しかも浪かと誤まる松風の声は聞えませんでした。山の中は気味の悪いほどに静まり返って、ただ遠い谷底で水の音がひびくばかりです。ここでも鶯の声をときどきに聞きました。

     (下)

 一本杉の下《もと》には金洞舎という家があります。この山の所有者の住居で、かたわら登山者の休憩所に充ててあるのです。二人はここの縁台を仮りて弁当をつかいました。弁当は菱屋で拵《こしら》えてくれたもので、山女《やまめ》の塩辛く煮たのと、玉子焼と蓮根《れんこん》と奈良漬の胡瓜《きゅうり》とを菜《さい》にして、腹のすいているわたしは、折詰の飯をひと粒も残さずに食ってしまいました。わたしはここで絵葉書を買って記念のスタンプを捺《お》して貰いました。東京の友達にその絵葉書を送ろうと思って、衣兜《かくし》から万年筆を取り出して書きはじめると、あたかもそれを覗き込むように、冷たい霧は黙ってすう[#「すう」に傍点]と近寄って来て、わたしの足から膝へ、膝から胸へと、だんだんに這い上がって来ます。葉書の表は見るみる湿《ぬ》れて、インキはそばから流れてしまいます。わたしは癇癪をおこして書くのをやめました。そうして、自分も案内者もこの家も、あわせて押し流して行きそうな山霧の波に向き合って立ちました。
 わたしは日露戦役の当時、玄海灘《げんかいなだ》でおそろしい濃霧に逢ったことを思い出しました。海の霧は山よりも深く、甲板の上で一尺さきに立っている人の顔もよく見えない程でした。それから見ると、今日の霧などはほとんど比べ物にならない位ですが、その時と今とはこっちの覚悟が違います。戦時のように緊張した気分をもっていない今のわたしは、この山霧に対しても甚だしく悩まされました。
 二人がここを出ようとすると、下の方から七人連れの若い人が来ました。磯部の鉱泉宿でゆうべ一緒になった日本橋辺の人たちです。これも無論に案内者を雇っていましたが、行く路は一つですからこっちも一緒になって登りました。途中に菅公|硯《すずり》の水というのがあります。菅原道真《すがわらみちざね》は七歳の時までこの麓に住んでいたのだそうで、麓には今も菅原村の名が残っていると云います。案内者は正直な男で、「まあ、ともかくも、そういう伝説《いいつたえ》になっています。」と、余り勿体《もったい》ぶらずに説明してくれました。
「さあ、来たぞ。」
 前の方で大きな声をする人があるので、わたしも気がついて見あげると、名に負う第一の石門《せきもん》は蹄鉄《ていてつ》のような形をして、霧の間から屹《きっ》と聳《そび》えていました。高さ十|丈《じょう》に近いとか云います。見聞の狭いわたしは、はじめてこういう自然の威力の前に立ったのですから、唯あっ[#「あっ」に傍点]と云ったばかりで、ちょっと適当な形容詞を考え出すのに苦しんでいるうちに、かの七人連れも案内者も先に立ってずんずん行き過ぎてしまいます。私もおくれまいと足を早めました。案内者をあわせて十人の人間は、鯨《くじら》に呑まれる鰯《いわし》の群れのように、石門の大きな口へだんだんに吸い込まれてしまいました。第一の石門を出る頃から、岩の多い路はいちじるしく屈曲して、あるいは高く、あるいは低く、さらに半月形をなした第二の石門をくぐると、蟹《かに》の横這いとか、釣瓶《つるべ》さがりとか、片手繰りとか、いろいろの名が付いた難所に差しかかるのです。なにしろ碌々《ろくろく》に足がかりも無いような高いなめらかな岩の間を、長い鉄のくさりにすがって降りるのですから、余り楽ではありません。案内者はこんなことを云って嚇《おど》しました。
「いまは草や木が茂っていて、遠い谷底が見えないからまだ楽です。山が骨ばかりになってしまって、下の方が遠く幽《かす》かに見えた日には、大抵な
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