人は足がすくみますよ。」
成程そうかも知れません。第二第三の石門をくぐり抜ける間は、わたしも少しく不安に思いました。みんなも黙って歩きました。もし誤まってひと足踏みはずせば、わたしもこの紀行を書くの自由を失ってしまわなければなりません。第四の石門まで登り詰めて、武尊岩《ぶそんいわ》の前に立った時には、人も我れも汗びっしょりになっていました。日本武尊《やまとたけるのみこと》もこの岩まで登って来て引っ返されたと云うので、武尊岩の名が残っているのだそうです。そのそばには天狗の花畑というのがあります。いずこの深山《みやま》にもある習いで、四季ともに花が絶えないので此の名が伝わったのでしょう。今は米躑躅《こめつつじ》の細かい花が咲いていました。
日本武尊にならって、わたしもここから引っ返しました。当人がしいて行きたいと望めば格別、さもなければ妄《みだ》りにこれから先へは案内するなと、警察から案内者に云い渡してあるのだそうです。
下山《げざん》の途中は比較的に楽でした。来た時とは全く別の方向を取って、水の多い谷底の方へ暫《しばら》く降って行きますと、さらに草や木の多い普通の山路に出ました。どんなに陰った日でも、正午前後には一旦明るくなるのだそうですが、今日はあいにくに霧が晴れませんでした。面白そうに何か騒いでいる、かの七人連れをあとに残して、案内者と私とは霧の中を急いで降りました。足の方が少しく楽になったので、わたしはまた例のおしゃべりを始めますと、案内者もこころよく相手になって、帰途《かえり》にもいろいろの話をしてくれました。その中にこんな悲劇がありました。
「旦那は妙義神社の前に田沼《たぬま》神官の碑というのが建っているのをご覧でしたろう。あの人は可哀そうに斬《き》り殺されたんです。明治三十一年の一月二十一日に……。」
「どうして斬られたんだね。」
「相手はまあ狂人ですね。神官のほかに六人も斬ったんですもの。それは大変な騒ぎでしたよ。」
妙義町ひらけて以来の椿事《ちんじ》だと案内者は云いました。その日は大雪の降った日で、正午を過ぎる頃に神社の外で何か大きな声を出して叫ぶ者がありました。神官の田沼|万次郎《まんじろう》が怪しんで、折柄そこに居合せた宿屋の番頭に行って見て来いと云い付けました。番頭が行って見ると、ひとりの若い男が袒《はだ》ぬぎになって雪の中に立っているのです。その様子がどうも可怪《おかし》いので、お前は誰だと声をかけると、その男はいきなりに刀を引き抜いて番頭を目がけて斬ってかかりました。番頭は驚いて逃げたので幸いに無事でしたが、その騒ぎを聞いて社務所から駈け付けて来た山伏の何某《なにがし》は、出合いがしらに一と太刀斬られて倒れました。これが第一の犠牲でした。
男はそれから血刀を振りかざして、まっしぐらに社務所へ飛び込みました。そうして、不意に驚く人々を片端から追い詰めて、あたるに任せて斬りまくったのです。田沼神官と下女とは庭に倒れました。神官の兄と弟は敵を捕えようとして内と庭とで斬られました。またそのほかにも二人の負傷者ができました。庭から門前の雪は一面に紅くひたされて、見るからに物すごい光景を現じました。血に狂った男はまだ鎮まらないで、相手嫌わずに雪の中を追い廻すのですから、町の騒ぎは大変でした。
半鐘が鳴る。消防夫が駈け付ける。町の者は思い思いの武器を持って集まる。四方八方から大勢が取り囲んで攻め立てたのですが、相手は死に物狂いで容易に手に負えません。そのうちに一人の撃ったピストルが男の足にあたって思わず小膝を折ったところへ、他の一人の槍がその脇腹にむかって突いて来ました。もうこれ迄《まで》です。男の血は槍や鳶口《とびぐち》や棒や鋤《すき》や鍬《くわ》を染めて、からだは雪に埋められました。検視の来る頃には男はもう死んでいました。
神官と山伏と下女とは即死です。ほかの四人は重傷ながら幸いに命をつなぎ止めました。わたしの案内者も負傷者を病院へ運んだ一人だそうです。
「そこで、その男は何者だね。」
わたしは縁台に腰をかけながら訊きました。くだりの路も途中からはもと来た路と一つになって、私たちはふたたび一本杉の金洞舎の前に出たのです。案内者も腰をおろして、茶を飲みながらまた話しました。
磯部から妙義へ登る途中に、西横野《にしよこの》という村があります。かの惨劇の主人公はこの村の生まれで、前年の冬に習志野《ならしの》の聯隊から除隊になって戻って来た男です。この男の兄というのは去年から行くえ不明になっているので、母もたいそう心配していました。すると、前に云った二十一日の朝、彼は突然に母にむかって、これから妙義へ登ると云い出したのです。この大雪にどうしたのかと母が不思議がりますと、実はゆうべ兄《にい》さんに逢ったと
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