来ました。草鞋はだんだんに重くなりました。
「旦那、気をおつけなさい。こういう陰った日には山蛭《やまびる》が出ます。」
「蛭が出る。」
わたしは慌てて自分の手足を見廻すと、たった今、ひやりとしたのは樹のしずくばかりではありませんでした。普通よりはやや大きいかと思われる山蛭が、足袋と脚絆との間を狙って、左の足首にしっかりと吸い付いていました。吸い付いたが最後、容易に離れまいとするのを無理に引きちぎって投げ捨てると、三角に裂けた疵口《きずぐち》から真紅《まっか》な血が止め度もなしにぽとぽと[#「ぽとぽと」に傍点]と流れて出ます。
「いつの間にか、やられた。」
こう云いながらふと気が付くと、左の腕もむずむずするようです。袖をまくって覗いて見ると、どこから這い込んだのか二の腕にも黒いのがまた一匹。慌てて取って捨てましたが、ここからも血が湧いて出ます。案内者の話によると、蛭の出るのは夏季の陰った日に限るので、晴れた日には決して姿を見せない。丁度きょうのような陰ってしめった日に出るのだそうで、わたしはまことに有難い日に来合せたのでした。
なにしろ血が止まらないのには困りました。見ているうちに左の手はぬらぬらして真紅になります。もう少しの御辛抱ですと云いながら案内者は足を早めて登って行きます。わたしもつづいて急ぎました。
路はやがて下《くだ》りになったようですが、わたしはその「もう少し」というところを目的《めあて》に、ただ夢中で足を早めて行きましたからよくは記憶していません。それから愛宕《あたご》神社の鳥居というのが眼にはいりました。ここらから路は二筋に分かれているのを、私たちは右へ取って登りました。路はだんだんに嶮《けわ》しくなって来て、岩の多いのが眼につきました。
妙義|葡萄酒《ぶどうしゅ》醸造所というのに辿《たど》り着いて、ふたりは縁台に腰をかけました。家のうしろには葡萄園があるそうですが、表構えは茶店のような作り方で、ここでは登山者に無代《ただ》で梅酒というのを飲ませます。喉《のど》が渇いているので、わたしは舌鼓を打って遠慮なしに二、三杯飲みました。そのあいだに案内者は家内から藁《わら》を二、三本貰って来て、藁の節を蛭の吸い口に当てて堅く縛ってくれました。これはどこでもやることで、蛭の吸い口から流れる血はこうして止めるよりほかは無いのです。血が止まって、わたしも先ずほっ[#「ほっ」に傍点]としました。
それにしても手足に付いた血の痕《あと》を始末しなければなりません。足の方はさのみでもありませんでしたが、手の方はべっとり紅くなっています。水を貰って洗おうとすると、ただ洗っても取れるものではない、一旦は水を口にふくんで、いわゆる啣《ふく》み水《みず》にして手拭《てぬぐい》か紙に湿《しめ》し、しずかに拭き取るのが一番よろしいと、案内者が教えてくれました。その通りにしてハンカチーフで拭き取ると、なるほど綺麗に消えてしまいました。
「むかしは蛭に吸われた旅の人は、妙義の女郎の啣み水で洗って貰ったもんです。」
案内者は煙草を吸いながら笑いました。わたしもさっきの話を思い出さずにはいられませんでした。
信州路から上州へ越えてゆく旅人が、この山蛭に吸われた腕の血を妙義の女に洗って貰ったのは、昔からたくさんあったに相違ありません。うす暗い座敷で行燈《あんどう》の火が山風にゆれています。江戸絵を貼った屏風《びょうぶ》をうしろにして、若い旅人が白い腕をまくっていると、若い遊女が紅さした口に水をふくんで、これを三栖紙《みすがみ》にひたして男の腕を拭いています。窓のそとでは谷川の音がきこえます。こんな舞台が私の眼の前に夢のように開かれました。
しかも其の美しい夢はたちまちに破られました。案内者は笠を持って起《た》ち上がりました。
「さあ、旦那、ちっと急ぎましょう。霧がだんだんに深くなって来ます。」
旅人と遊女の舞台は霧に隠されてしまいました。わたしも草鞋の紐を結び直して起ちました。足もとには岩が多くなって来ました。頭の上には樹がいよいよ繁って来ました。わたしは山蛭を恐れながら進みました。谷に近い森の奥では懸巣《かけす》が頻《しき》りに鳴いています。鸚鵡《おうむ》のように人の口真似をする鳥だとは聞いていましたが、見るのは初めてです。枝から枝へ飛び移るのを見ると、形は鳩《はと》のようで、腹のうす赤い、羽のうす黒い鳥でした。小鳥を捕って食う悪鳥だと云うことです。ジィジィという鳴く音を立てて、なんだか寂しい声です。
岩が尽きると、また冷たい土の路になりました。ひと足踏むごとに、土の底からにじみ出すようなうるおいが草鞋に深く浸み透って来ます。狭い路の両側には芒《すすき》や野菊のたぐいが見果てもなく繁り合って、長く長く続いています。ここらの山吹《
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