せ》ない女の悲しい涙のあとが残っているかも知れない。温泉場に来ているからと云って、みんなのんきな保養客ばかりではない。この古い火鉢の灰にもいろいろの苦しい悲しい人間の魂が籠《こも》っているのかと思うと、わたしはその灰をじっと見つめているのに堪えられないように思うこともある。
修禅寺の夜の鐘は春の寒さを呼び出すばかりでなく、火鉢の灰の底から何物をか呼び出すかも知れない。宵っ張りの私もここへ来てからは、九時の鐘を聴かないうちに寝ることにした。[#地付き](大正7・3「読売新聞」)
[#改ページ]
妙義の山霧
(上)
妙義町《みょうぎまち》の菱屋《ひしや》の門口《かどぐち》で草鞋《わらじ》を穿いていると、宿の女が菅笠《すげがさ》をかぶった四十五、六の案内者を呼んで来てくれました。ゆうべの雷《かみなり》は幸いにやみましたが、きょうも雨を運びそうな薄黒い雲が低くまよって、山も麓も一面の霧に包まれています。案内者とわたしは笠をならべて、霧のなかを爪さき上がりに登って行きました。
私は初めてこの山に登る者です。案内者は当然の順序として、まずわたしを白雲山《はくうんざん》の妙義神社に導きました。社殿は高い石段の上にそびえていて、小さい日光《にっこう》とも云うべき建物です。こういう場所には必ずあるべきはずの杉の大樹が、天と地とを繋ぎ合せるように高く高く生い茂って、社前にぬかずく参拝者の頭《こうべ》の上をこんもりと暗くしています。私たちはその暗い木の下蔭をたどって、山の頂きへと急ぎました。
杉の林は尽きて、さらに雑木《ぞうき》の林となりました。路のはたには秋の花が咲き乱れて、芒《すすき》の青い葉は旅人《たびびと》の袖にからんで引き止めようとします。どこやらでは鶯《うぐいす》が鳴いています。相も変らぬ爪さき上がりに少しく倦《う》んで来たわたしは、小さい岩に腰を下ろして巻煙草をすいはじめました。霧が深いのでマッチがすぐに消えます。案内者も立ち停まって同じく煙管《きせる》を取り出しました。
案内者は正直そうな男で、煙草のけむりを吹く合い間にいろいろの話をして聞かせました。妙義登山者は年々|殖《ふ》える方であるが暑中は比較的にすくない、一年じゅうで最も登山者の多いのは十月の紅葉の時節で、一日に二百人以上も登ることがある。しかし昔にくらべると、妙義の町はたいそう衰えたそうで、二十年前までは二百戸以上をかぞえた人家が今では僅かに三十二戸に減ってしまったと云います。
「なにしろ貸座敷が無くなったので、すっかり寂《さび》れてしまいましたよ。」
「そうかねえ。」
わたしは巻煙草の吸殻《すいがら》を捨てて起つと、案内者もつづいて歩き出しました。山霧は深い谷の底から音も無しに動いて来ました。
案内者は振り返りながらまた話しました。上州《じょうしゅう》一円に廃娼を実行したのは明治二十三年の春で、その当時妙義の町には八戸の妓楼《ぎろう》と四十七人の娼妓があった。妓楼の多くは取り毀されて桑畑となってしまった。磯部《いそべ》や松井田《まついだ》からかよって来る若い人々のそそり唄も聞えなくなった。秋になると桑畑には一面に虫が鳴く。こうして妙義の町は年毎に衰えてゆく。
谷川の音が俄かに高くなったので、話し声はここで一旦消されてしまいました。頂上の方からむせび落ちて来る水が岩や樹の根に堰《せ》かれて、狭い山路を横ぎって乱れて飛ぶので、草鞋《わらじ》を湿《ぬ》らさずに過ぎる訳には行きませんでした。案内者は小さい石の上をひょいひょいと飛び越えて行きます。わたしもおぼつかない足取りで其の後を追いましたが、草鞋はぬれていい加減に重くなりました。
水の音をうしろに聞きながら、案内者はまた話し出しました。維新前の妙義町は更に繁昌したものだそうで、普通の中仙道は松井田から坂本《さかもと》、軽井沢《かるいざわ》、沓掛《くつかけ》の宿々《しゅくじゅく》を経て追分《おいわけ》にかかるのが順路ですが、そのあいだには横川《よこかわ》の番所があり、碓氷《うすい》の関所があるので、旅人の或る者はそれらの面倒を避けて妙義の町から山伝いに信州の追分へ出る。つまり此の町が関の裏路になっていたのです。山ふところの夕暮れに歩み疲れた若い旅人が青黒い杉の木立《こだち》のあいだから、妓楼の赤い格子を仰ぎ視た時には、沙漠でオアシスを見いだしたように、かれらは忙《いそ》がわしくその軒下に駈け込んで、色の白い山の女に草鞋の紐《ひも》を解かせたでしょう。
「その頃は町もたいそう賑やかだったと、年寄りが云いますよ。」
「つまり筑波《つくば》の町のような工合だね。」
「まあ、そうでしょうよ。」
霧はいよいよ深くなって、路をさえぎる立木の梢《こずえ》から冷たい雫《しずく》がばらばらと笠の上に降って
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