《ようや》くやんだ。山の方では鹿の声が遠くきこえた。あわれな無信仰者は初めて平和の眠りに就いた。枕もとの時計はもう一時を過ぎていた。[#地付き](大正2・10「やまと新聞」)
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秋の修善寺
(一)
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(明治四十一年)九月の末におくればせの暑中休暇を得て、伊豆《いず》の修善寺《しゅうぜんじ》温泉に浴し、養気館の新井《あらい》方にとどまる。所作為《しょざい》のないままに、毎日こんなことを書く。
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二十六日。きのうは雨にふり暮らされて、宵から早く寝床にはいったせいか、今朝は五時というのにもう眼が醒めた。よんどころなく煙草をくゆらしながら、襖《ふすま》にかいた墨絵の雁《かり》と相対すること約半時間。おちこちに鶏《とり》が勇ましく啼《な》いて、庭の流れに家鴨《あひる》も啼いている。水の音はひびくが雨の音はきこえない。
六時、入浴。その途中に裏二階から見おろすと、台所口とも思われる流れの末に長さ三|尺《じゃく》ほどの蓮根《れんこん》をひたしてあるのが眼についた。湯は菖蒲の湯で、伝説にいう、源三位頼政《げんざんみよりまさ》の室|菖蒲《あやめ》の前《まえ》は豆州長岡《ずしゅうながおか》に生まれたので、頼政滅亡の後、かれは故郷に帰って河内《かわうち》村の禅長寺に身をよせていた。そのあいだに折りおりここへ来て入浴したので、遂にその湯もあやめの名を呼ばれる事になったのであると。もし果たしてそうであるならば、猪早太《いのはやた》ほどにもない雑兵葉武者《ぞうひょうはむしゃ》のわれわれ風情が、遠慮なしに頭からざぶざぶ浴びるなどは、遠つ昔の上臈《じょうろう》の手前、いささか恐れ多き次第だとも思った。おいおいに朝湯の客がはいって来て、「好《よ》い天気になって結構です。」と口々に云う。なにさま外は晴れて水は澄んでいる。硝子戸《ガラスど》越しに水中の魚の遊ぶのがあざやかにみえた。
朝飯をすました後、例の範頼《のりより》の墓に参詣した。墓は宿から西北へ五、六丁、小山というところにある。稲田や芋《いも》畑のあいだを縫いながら、雨後のぬかるみを右へ幾曲がりして登ってゆくと、その間には紅い彼岸花《ひがんばな》がおびただしく咲いていた。墓は思うにもまして哀れなものであった。片手でも押し倒せそうな小さい仮家で、柊《ひいらぎ》や柘植《つげ》などの下枝に掩《おお》われながら、南向きに寂しく立っていた。秋の虫は墓にのぼって頻《しき》りに鳴いていた。
この時、この場合、何人《なんぴと》も恍《こう》として鎌倉時代の人となるであろう。これを雨月物語《うげつものがたり》式につづれば、範頼の亡霊がここへ現われて、「汝《なんじ》、見よ。源氏《げんじ》の運も久しからじ。」などと、恐ろしい呪《のろ》いの声を放つところであろう。思いなしか、晴れた朝がまた陰って来た。
拝し終って墓畔の茶屋に休むと、おかみさんは大いに修善寺の繁昌を説き誇った。あながちに笑うべきでない。人情として土地自慢は無理もないことである。とこうするあいだに空はふたたび晴れた。きのうまではフランネルに袷《あわせ》羽織を着るほどであったが、晴れると俄《にわ》かにまた暑くなる。芭蕉《ばしょう》翁は「木曾《きそ》殿と背中あはせの寒さ哉《かな》」と云ったそうだが、わたしは蒲《かば》殿と背中あわせの暑さにおどろいて、羽織をぬぎに宿に帰ると、あたかも午前十時。
午後、東京へ送る書信二、三通をしたためて、また入浴。欄干《らんかん》に倚《よ》って見あげると、東南につらなる塔《とう》の峰《みね》や観音山などが、きょうは俄かに押し寄せたように近く迫って、秋の青空がいっそう高く仰がれた。庭の柿の実はやや黄ばんで来た。真向うの下座敷では義太夫の三味線がきこえた。
宿の主人が来て語る。主人は頗る劇通であった。午後三時ふたたび出て修禅寺《しゅぜんじ》に参詣した。名刺を通じて古宝物《こほうもつ》の一覧を請うと、宝物は火災をおそれて倉庫に秘めてあるから容易に取出すことは出来ない。しかも、ここ両三日は法要で取込んでいるから、どうぞその後にお越し下されたいと慇懃《いんぎん》に断わられた。
去って日枝《ひえ》神社に詣でると、境内に老杉多く、あわれ幾百年を経たかと見えるのもあった。石段の下に修善寺駐在所がある。範頼が火を放って自害した真光院というのは、今の駐在所のあたりにあったと云い伝えられている。して見ると、この老いたる杉のうちには、ほろびてゆく源氏の運命を眼のあたりに見たのもあろう。いわゆる故国は喬木あるの謂《いい》にあらずと、唐土の賢人は云ったそうだが、やはり故国の喬木はなつかしい。
挽物《ひきもの》細工の玩具などを買って帰ろうとすると、町の中ほどで赤い旗をたてた楽隊
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