んまく》が張り廻されていた。海の波は畳のように平らかであった。この老人たちは艫《ろ》をあやつりながら、声を揃えてかの舟唄を歌った。
 それから幾十年の後に、この人々はふたたび孔雀丸に乗った。老いたるかれらはみずから艫擢《ろかい》を把《と》らなかったが、旧主君の前にあると同一の態度を以って謹んで歌った。かれらの眼の前には裃《かみしも》も見えなかった、大小も見えなかった。異人のかぶった山高帽子や、フロックコートがたくさんに列んでいた。この老人たちは恐らくこの奇異なる対照と変化とを意識しないであろう、また意識する必要も認めまい。かれらは幾十年前の旧《ふる》い美しい夢を頭に描きながら、幾十年前の旧い唄を歌っているのである。かれらの老いたる眼に映るものは、裃である、大小である、竹に雀の御紋である。山高帽やフロックコートなどは眼にはいろう筈がない。
 私はこの老人たちに対して、一種尊敬の念の湧くを禁じ得なかった。勿論その尊敬は、悲壮と云うような観念から惹き起される一種の尊敬心で、例えば頽廃《たいはい》した古廟に白髪の伶人《れいじん》が端坐して簫《ふえ》の秘曲を奏している、それとこれと同じような感があった。わたしは巻煙草をくわえながら此の唄を聴くに忍びなかった。
 この唄は、この老人たちの生命《いのち》と共に、次第に亡びて行くのであろう。松島の海の上でこの唄の声を聴くのは、あるいはこれが終りの日であるかも知れない。わたしはそぞろに悲しくなった。
 しかし仙台の国歌とも云うべき「さんさ時雨」が、芸妓の生鈍《なまぬる》い肉声に歌われて、いわゆる緑酒《りょくしゅ》紅燈の濁った空気の中に、何の威厳もなく、何の情趣も無しに迷っているのに較べると、この唄はむしろこの人々と共に亡びてしまう方が優《まし》かも知れない。この人々のうちの最年長者は、七十五歳であると聞いた。

     金華山の一夜

 金華山《きんかざん》は登り二十余町、さのみ嶮峻《けんしゅん》な山ではない、むしろ美しい青い山である。しかも茫々たる大海のうちに屹立《きつりつ》しているので、その眼界はすこぶる闊《ひろ》い、眺望雄大と云ってよい。わたしが九月二十四日の午後この山に登った時には、麓《ふもと》の霧は山腹の細雨《こさめ》となって、頂上へ来ると西の空に大きな虹が横たわっていた。
 海中の孤島、黄金山神社のほかには、人家も無い。参詣の者はみな社務所に宿を借るのである。わたしも泊まった。夜が更けると、雨が瀧のように降って来た。山を震わすように雷《らい》が鳴った。稲妻が飛んだ。
「この天気では、あしたの船が出るか知ら。」と、わたしは寝ながら考えた。
 これを案じているのは私ばかりではあるまい。今夜この社務所には百五十余人の参詣者が泊まっているという。この人々も同じ思いでこの雨を聴いているのであろうと思った。しかも今日では種々の準備が整っている。海が幾日も暴《あ》れて、山中の食料がつきた場合には、対岸の牡鹿《おじか》半島にむかって合図の鐘を撞《つ》くと、半島の南端、鮎川《あゆかわ》村の忠実なる漁民は、いかなる暴風雨の日でも約二十八丁の山雉《やまどり》の渡しを乗っ切って、必ず救助の船を寄せることになっている。
 こう決まっているから、たとい幾日この島に閉じ籠められても、別に心配することも無い。わたしは平気で寝ていられるのだ。が、昔はどうであったろう。この社《やしろ》の創建は遠い上代《じょうだい》のことで、その年時も明らかでないと云う。尤《もっと》もその頃は牡鹿半島と陸続きであったろうと思われるが、とにかく斯《こ》ういう場所を撰んで、神を勧請《かんじょう》したという昔の人の聡明に驚かざるを得ない。ここには限らず、古来著名の神社仏閣が多くは風光|明媚《めいび》の地、もしくは山谷嶮峻の地を相《そう》して建てられていると云う意味を、今更のようにつくづく感じた。これと同時に、古来人間の信仰の力というものを怖ろしいほどに思い知った。海陸ともに交通不便の昔から年々幾千万の人間は木《こ》の葉のような小さい舟に生命を托して、この絶島《はなれじま》に信仰の歩みを運んで来たのである。ある場合には十日も二十日も風浪に阻《はば》められて、ほとんど流人《るにん》同様の艱難《かんなん》を嘗《な》めたこともあったろう。ある場合には破船して、千尋《ちひろ》の浪の底に葬られたこともあったろう。昔の人はちっともそんなことを怖れなかった。
 今の信仰の薄い人――少なくとも今のわたしは、ほとんど保険付きともいうべき大きな汽船に乗って来て、しかも食料欠乏の憂いは決して無いという確信を持っていながら、一夜の雷雨にたちまち不安の念をきざすのである。こんなことで、どうして世の中に生きていられるだろう。考えると、何だか悲しくなって来た。
 雷雨は漸
前へ 次へ
全102ページ中49ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング