という芝居はありませんでした。

     *

「なにか旨《うま》い物が食いたいなあ。」
 そんな贅沢《ぜいたく》を云っているのは、駐屯無事の時で、ひとたび戦闘が開始すると、飯どころの騒ぎでなく、時には唐蜀黍《とうもろこし》を焼いて食ったり、時には生玉子二個で一日の命を繋《つな》いだこともありました。沙河《しゃか》会戦中には、農家へはいって一椀の水を貰《もら》ったきりで、朝から晩まで飲まず食わずの日もありました。不眠不休の上に飲まず食わずで、よくも達者に駈け廻られたものだと思いますが、非常の場合にはおのずから非常の勇気が出るものです。そんな場合でも露西亜兵《ロシアへい》携帯の黒パンはどうしても喉《のど》に通りませんでした。シナ人が常食の高梁《コーリャン》も再三試食したことがありますが、これは食えない事もありませんでした。戦闘が始まると、シナ人はみな避難してしまうので、その高梁飯も戦闘中には求めることが出来ず、空腹をかかえて駈けまわることになるのです。
 燈火は蝋燭《ろうそく》か火縄で、物をかく時は蝋燭を用い、暗夜に外出する時には火縄を用いるのですが、この火縄を振るのが案外にむずかしく、緩《ゆる》く振れば消えてしまい、強く振れば振り消すと云うわけで、五段目の勘平《かんぺい》のような器用なお芝居は出来ません。今日《こんにち》ならば懐中電燈もあるのですが、不便なことの多い時代、殊《こと》に戦地ですから已《や》むを得ないのです。火縄を振るのは路《みち》を照らす為ばかりでなく、野犬を防ぐためです。満洲の野原には獰猛《どうもう》な野犬の群れが出没するので困りました。殊にその野犬は戦場の血を嘗《な》めているので、ますます獰猛、ほとんど狼にひとしいので、我々を恐れさせました。そのほかには、蝎《さそり》、南京《ナンキン》虫、虱《しらみ》など、いずれも夜となく、昼となく、我々を悩ませました。蝎に螫《さ》されると命を失うと云うので、虱や南京虫に無神経の苦力らも、蝎と聞くと顔の色を変えました。
「新聞記者に危険はありませんか。」
 これはしばしばたずねられますが、決して危険がないとは云えません。従軍記者も安全の場所にばかり引き籠っていては、新しい報告も得られず、生きた材料も得られませんから、危険を冒《おか》して奔走しなければなりません。文字通りに、砲烟弾雨《ほうえんだんう》の中をくぐることもしばしばあります。日清戦争には二六新報の遠藤《えんどう》君が威海衛《いかいえい》で戦死しました。日露戦争には松本日報の川島《かわしま》君が沙河で戦死しました。川島君は砲弾の破片に撃たれたのです。私もその時、小銃弾に帽子を撃ち落されましたが、幸いに無事でした。その弾丸がもう一寸《いっすん》と下がっていたら、唯今《ただいま》こんなお話をしてはいられますまい。私のほかにも、こういう危険に遭遇して、危く免れた人々は幾らもあります。殊に今日《こんにち》は空爆ということもありますから、いよいよ油断はなりません。
 今度の事変にも、北支に、上海に、もう幾人かの死傷者を出したようです。この事変がどこまで拡大するか知れませんが、従軍記者諸君のあいだに此の以上の犠牲者を出さないようにと、心から祈って居ります。[#地付き](昭和12・8稿・『思ひ出草』所収)
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苦力とシナ兵


     一

 昨今は到るところで満洲の話が出るので、わたしも在満当時のむかしが思い出されて、いわゆる今昔《こんじゃく》の感が無いでもない。それは文字通りの今昔で、今から約三十年の昔、私は東京日日新聞の従軍記者として、日露戦争当時の満洲を奔走していたのである。
 それについての思い出話を新聞紙上にも書いたが、それからそれへと繰り出して考えると、まだ云い残したことが随分《ずいぶん》ある。そのなかで苦力《クーリー》のことを少しばかり書いてみる。
 シナの苦力は世界的に有名なもので、それがどんなものであるかは誰でも知っているのであるから、今あらためてその生活などに就いて語ろうとするのではない。ただ、ひと口に苦力といえば、最も下等な人間で、横着で、狡猾《こうかつ》で、吝嗇《りんしょく》で、不潔で、ほとんど始末の付かない者のように認められているらしいが、必ずしもそんな人間ばかりで無いと云うことを、私の実験によって語りたいと思うのである。
 私が戦地にある間に、前後三人の苦力を雇った。最初は王福《おうふく》、次は高秀庭《こうしゅうてい》、次は丁禹良《ていうりょう》というのであった。
 最初の王福は一番若かった。彼は二十歳で、金州《きんしゅう》の生まれであると云った。戦時であるから、かれらも用心しているのかも知れないが、極めて柔順で、よく働いた。一日の賃銀は五十銭であったが、彼は朝から晩まで実によく働い
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