て、われわれ一行七人の炊事から洗濯その他の雑用を、何から何まで彼一人で取《とり》り賄《まかな》ってくれた。
彼は煙草《たばこ》をのむので、私があるとき菊世界という巻莨《まきたばこ》一袋をやると、彼は拝して受取ったが、それを喫《の》まなかった。自分の兄は日本軍の管理部に雇われているから、あしたの朝これを持って行ってやりたいと云うのである。われわれの宿所から管理部までは十町ほども距《はな》れている。彼は翌朝、忙がしい用事の隙《すき》をみて、その莨を管理部の兄のところへ届けに行った。
それから二、三日の後、私が近所を散歩していると、彼は他の苦力と二人づれで、路《みち》ばたの露店の饅頭《まんとう》を食っていたが、私の姿をみると直《す》ぐに駈けて来た。連れの苦力は彼の兄であった。兄は私にむかって、丁寧に先日の莨の礼を述べた。いかに相手が苦力でも、一袋の莨のために兄弟から代るがわるに礼を云われて、私はいささか極まりが悪かった。
その後、注意して見ると、彼は時どきに兄をたずねて、二人が連れ立って何か食いに行くらしい。どちらが金を払うのか知らないが、兄弟仲のいいことは明らかに認められた。私は兄の顔をみると、莨をやることにしていたが、二、三回の後に兄はことわった。
大人《たいじん》の莨の乏しいことは私たちも知っていると、彼は云うのである。実際、戦地では莨に不自由している。彼はさらに片言《かたこと》の日本語で、こんな意味のことを云った。
「管理部の人、みな莨に困っています。この莨、わたくしに呉れるよりも、管理部の人にやってください。」
私は無言でその顔をながめた。勿論、多少のお世辞もまじっているであろうが、苦力の口から斯《こ》ういう言葉を聞こうとは思わなかったのである。これまでとかくに彼らを侮《あなど》っていたことを、私は心ひそかに恥じた。
金州の母が病気だという知らせを聞いて、王の兄弟は暇《ひま》を取って郷里に帰った。帰る時に、兄も暇乞《いとまご》いに来たが、兄は特に私にむかって、大人はからだが弱そうであるから、秋になったらば用心しろと注意して別れた。
王福の次に雇われて来たのが、高秀庭である。高は苦力の本場の山東《さんとう》省の生まれであるが、年は二十二歳、これまで上海《シャンハイ》に働いていたそうで、ブロークンながらも少しく英語を話すので調法であった。これも極めて柔順で、すこぶる怜悧《れいり》な人間であった。
高を雇い入れてから半月ほどの後に、遼陽《りょうよう》攻撃戦が始まったので、私たちは自分の身に着けられるだけの荷物を身に着けた。残る荷物はふた包みにして、高が天秤《てんびん》棒で肩にかついだ。そうして、軍の移動と共に前進していたのであるが、この戦争が始まると、雨は毎日降りつづいた。満洲の秋は寒い。八月の末でも、夜は焚火がほしい位である。その寒い雨に夜も昼も濡《ぬ》れていた為に、一行のうちに風邪をひく者が多かった。私もその一人で、鞍山店《あんざんてん》附近にさしかかった時には九度二分の熱になってしまった。
他の人々も私の病気を心配して、このままで雨に晒《さら》されているのは良くあるまいというので、苦力の高を添えて私を途中にとどめ、他の人々は前進することになった。鞍山店は相当に繁昌している土地らしいが、ここらの村落の農家はみな何処《どこ》へか避難して、どの家にも人の影はみえない。高は雨の中を奔走して、比較的に綺麗な一軒のあき家を見つけて来てくれた。そこへ私を連れ込んで、彼は直ぐに高梁《コーリャン》を焚いて湯を沸かした。珈琲《コーヒー》に砂糖を入れて飲ませてくれた。前方では大砲や小銃の音が絶え間なしにきこえる。雨はいよいよ降りしきる。こうして半日を寝て暮らすうちに、その日もいつか夜になった。高は蝋燭をとぼして、夕飯の支度にかかった。
日が暮れると共に、わたしは一種の不安を感じ始めた。以前の王福の正直は私もよく知っていたが、今度の高秀庭の性質はまだ本当にわからない。私の荷物は勿論、一行諸君の荷物もひと纏めにして、彼がみな預かっているのである。私が病人であるのを幸いに、夜なかに持ち逃げでもされては大変である。九度以上の熱があろうが、苦しかろうが、今夜は迂濶《うかつ》に眠られないと、私は思った。
そうは思いながらも、高の煮てくれた粥《かゆ》を食って、用意の薬を飲むと、なんだかうとうと[#「うとうと」に傍点]と眠くなって来た。ふと気が付くと、枕もとの蝋燭が消えている。マッチを擦って時計をみると、今夜はもう九時半を過ぎている、高の姿はみえない。はっ[#「はっ」に傍点]と思って、私は直ぐに飛び起きた。
しかし荷物の包みはそのままになっている。調べてみると、品物には異状はないらしい。それでやや安心したが、それにしても彼はどこへ行った
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