社の名をもって許可を受けました。
東京通信社などはいい方で、そんな新聞があるか無いか判らないような、遠い地方の新聞社員と称して、従軍願いを出す者が続々あらわれる。陸軍省でその新聞社の所在地を訊《き》かれても、御本人はハッキリと答えることが出来ないと云うような滑稽《こっけい》もありました。陸軍側でもその魂胆を承知していたでしょうが、一社一人の規定に触れない限りは、いずれも許可してくれました。それで東京の各新聞社も少なきは二、三人、多きは五、六人の従軍記者を送り出すことが出来たのでした。
勿論、それは内地を出発するまでのことで、戦地へ行き着くと皆それぞれに正体をあらわして、自分は朝日だとか日日だとか名乗って通る。配属部隊の方でも怪しみませんでした。しかし袖印《そでじるし》だけは届け出での社名を用いることになっていて、わたしもカーキー服の左の腕に東京通信社と紅《あか》く縫った帛《きれ》を巻いていました。日清戦争当時と違って、槍や刀などを携帯することはいっさい許されません。武器はピストルだけを許されていたので、私たちは腰にピストルを着けていました。
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従軍記者の携帯品は、ピストルのほかに雨具、雑嚢《ざつのう》または背嚢《はいのう》、飯盒《はんごう》、水筒、望遠鏡で、通信用具は雑嚢か背嚢に入れるだけですから、たくさんに用意して行くことが出来ないので困りました。万年筆はまだ汎《ひろ》く行なわれない時代で、万年筆を持っている者は一人もありませんでした。鉛筆は折れ易くて不便であるので、どの人も小さい毛筆を用いていました。従って、矢立《やたて》を持つ者もあり、小さい硯《すずり》と墨を使っている者もあり、今から思えばずいぶん不便でした。
しかしまた、一利一害の道理で、われわれは机にむかって通信を書く場合はほとんど無い。シナ家屋のアンペラの上に俯伏《うつぶ》して書くか、或いは地面に腹|這《ば》いながら書くのですから、ペンや鉛筆では却《かえ》って不便で、むしろ柔かい毛筆を用いた方が便利だと云う場合もありました。紙は原稿紙などを用いず、巻紙に細かく書きつづけるのが普通でした。
宿舎は隊の方から指定してくれた所に宿泊することになっていて、妄《みだ》りに宿所を更《か》えることは出来ません。大抵は村落の農家でした。しかし戦闘継続中は隊の方でもそんな世話を焼いていられないので、私たちは勝手に宿所を探さなければなりません。空家へはいったり、古廟《こびょう》に泊まったり、時には野宿することもありました。草原や畑に野宿していると、夜半から寒い雨がビショビショ降り出して来て、あわてて雨具をかぶって寝る。こうなると、少々心細くなります。鬼が出るという古廟に泊まると、その夜なかに寝相《ねぞう》の悪い一人が関羽《かんう》の木像を蹴倒《けたお》して、みんなを驚かせましたが、ほかには怪しい事もありませんでした。鬼が出るなどと云い触らして、土地のごろつきどもの賭場《とば》になっていたらしいのです。
食事は監理部へ貰《もら》いに行って、米は一人について一日分が六合、ほかに罐詰などの副食物をくれるのですが、時には生きた鷄《とり》や生《なま》の野菜をくれることがある。米は焚《た》かなければならず、鷄や野菜は調理しなければならず、三度の食事の世話もなかなか面倒でした。私たちは七人が一組で、二人の苦力《クーリー》を雇っていましたが、シナの苦力は日本の料理法を知らないので、七人の中から一人の炊事当番をこしらえて、毎日交代で食事の監督をしていました。煮物をするにはシナの塩を用い、或いは醤油エキスを水に溶かして用いました。砂糖は監理部で呉れることもあり、私たちが町のある所へ行って買うこともありました。
苦力の日給は五十銭でしたが、みな喜んで忠実に働いてくれました。一人は高秀庭《こうしゅうてい》、一人は丁禹良《ていうりょう》というのでしたが、そんなむずかしい名を一々呼ぶのは面倒なので、わたしの考案で一人を十郎《じゅうろう》、他を五郎《ごろう》という事にしました。この二人が「新聞記者雇苦力、十郎、五郎」と大きく書いた白布を胸に縫い付けているので、誰の眼にも着き易く、往来の兵士らが面白半分に「十郎、五郎」と呼ぶので、二人もいちいちその返事をするのに困っているようでした。苦力の曾我《そが》兄弟はまったく珍しかったかも知れません。
東京へ帰ってから聞きますと、伊井蓉峰《いいようほう》の新派一座が中洲《なかず》の真砂座《まさござ》で日露戦争の狂言を上演、曾我兄弟が苦力に姿をやつして満洲の戦地へ乗り込み、父の仇《かたき》の露国将校を討ち取るという筋であったそうで、苦力の五郎十郎が暗合《あんごう》しているには驚きました。但《ただ》し私たちの五郎十郎は正真正銘の苦力で、かたき討など
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