怖ろしい野性がひそんでいるらしい彼の前に曳き出された時に、栄之丞は言い知れぬ怖れを感じた。ひとを欺《だま》すことのできない彼は、いよいよこの人を欺すことを怖ろしく感じたのであった。
「ぬしも気が弱い。なぜあの金を断わってしまいなんしたえ」
 八橋はあとで失望したように言った。
「いや、あの人を欺すのは悪い。ああいう人を欺すと殺されるぞ」と、栄之丞はおびえたように言った。八橋はただ笑っていた。
 その以来、栄之丞は八橋に近づくことがなんだか忌《いや》になって来た。いかにひとを欺すのが商売でも八橋の仕方は余りに大胆だと思った。一面からいえば、あまりに残酷だとも思った。廓《くるわ》の水に染みると、こうも冷たい心にもなるものかと、彼はそぞろに怖ろしくもなった。それから惹《ひ》いて次郎左衛門の恨みを買うことを怖ろしかった。彼は相変らず八橋を懐かしいものに思いながらも、以前のように足近くかよって行く気にはなれなかった。それと同時に、彼はもう少しまじめになって、女を頼らずに生きてゆく方法を考えなければならないと思い立った。
 それからいろいろに奔走して、この冬の初めから謡いの出稽古の口を見つけ出した
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