気というのを幸いに、彼は日のあるうちに主人を連れて帰ろうと思ったのであるが、そんな浅薄《あさはか》なくわだては「馬鹿らしい」の一言に破壊された。
 自分の相方の浮橋は茶屋の二階に来ているのであるが、彼はそんなことに係り合いのないようにぼんやりと考えていた。
 主人は八橋にもう二百両やった。新造二人に十五両ずつやった。まだやらないが、茶屋の女房にも女中にもきっとやるに相違ない。まずあしたの朝日を拝むまでに、あわせて三百両は朝の霜のように消えてしまうものと思わなければならない。千両の三分の一はもうなくなる――こう思うと、治六は肉をそがれるように情けなかった。それでも、あしたの朝すぐに帰ればいい、もしまた未練らしくぐずぐずしていたら、きょう持って来た五百両はみんな飛んでしまう。おとなしくここまでは付いて来たものの、彼はもう主人の胸倉を掴んで引き摺って帰りたいようにもいらいら[#「いらいら」に傍点]して来た。
 背中合せの松飾りはまだ見えなかったが、家々の籬《まがき》のうちには炉を切って、新造や禿《かむろ》が庭釜の火を焚《た》いていた。その焚火の煙りが夕暮れの寒い色を誘い出すように、籬を洩れて
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