禍いは、彼の身代の大部分を空《から》にしていた。いくら帳簿を整理しても十露盤をはじいても、いまさら療治のできるような浅い手疵《てきず》ではなかった。殊に今までの喧嘩商売を離れてから、彼の頭はぼんやりして来た。アルコール中毒の患者から酒を奪ったように、彼は活動の力を失った。おとなしくなった、堅気になったとよそ目に見えるのも、噴火山が死火山に変りつつあるというに過ぎなかった。彼としては、むしろ一種の衰えであった。
 彼はその衰えを自覚しないほどに八橋にあこがれていた。そうして、約束通りに堅気の百姓になって、ことしの春ふたたび吉原へ来た。その話を聞いて、八橋は又こう言った。
「よく気を入れ替えなんした。人間は堅気に限りいす」と、彼女《かれ》は身につまされたように言った。
 その深い意味は判らなかったが、女に褒められた次郎左衛門は子供のように嬉しがった。
 しかし、その百姓生活を長く営むことを許されなかった。彼が今年の盆に国に帰ってから後、いろいろの禍いがそれからそれへと落ちかかって来た。彼は一家の後始末を親類に頼んで故郷を立ち退《の》くよりほかはなかった。彼は江戸へ出て、何か生きてゆく方法を
前へ 次へ
全139ページ中15ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング