あしたは月代《さかやき》でもして、それから改めて出かけるつもりであった。もう再び故郷の佐野へは帰らない。江戸に根を据えてしまう覚悟であるから、さすがに一夜を争うにも及ばないと思った。勿論、八橋が恋しいには相違なかった。それでも今年もう三十一になる次郎左衛門は、なま若いものと違って、幾らか落ち着いたところもあった。彼はおとなしくあしたを待っていた。
ちらちらと揺れる行燈の灯を見つめて、彼は自分の過去を静かに考えた。十六の年から博奕場に足を入れて、二十歳《はたち》で父に別れたのちは、博奕と喧嘩で彼は十幾年の月日を送った。そのあいだに妾を置いたこともあったが、それは自分の手廻りの用をさせるのにとどまって、それから温かい愛情を見いだそうなどとは思いも付かなかった。彼は手綱《たづな》の切れた暴馬《あれうま》のように、むやみに鬣毛《たてがみ》を振り立てて狂い廻っているのを無上の楽しみとしていた。彼は自分の野性を縦横無尽に発揮して、それを生き甲斐のある仕事と思っていた。
それが去年の春からがらりと変った。自分でも不思議に思うほどに変ってしまった。それは八橋から唯ひとこと、こう言われたからであった
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