りそうもねえ。つまり、旦那は自分の身上《しんしょう》をみんな投げ出して、親類の人たちにあとの始末をいいように頼んで、空身《からみ》で生まれ故郷を立ち退くことになったのさ。空身といっても千両ほどの金をもっている。それを元手に江戸で何か商売でも始めるつもりだから、この後もまあよろしく願いますよ」
「千両……。古河《ふるかわ》に水絶えずだね」と、亭主は感心したように言った。「それだけの元手がありゃあ、江戸でどんな商売でもできますよ。千両はさておいて、百両あっても気強いものさ」
二階で治六を呼ぶ声がきこえるので、彼はそそくさと煙管《きせる》をしまって起《た》ちあがった。
二
暗い行燈《あんどう》の前で、次郎左衛門は黙って石町《こくちょう》の四《よ》つ(午後十時)の鐘を聴いていた。治六は旅の疲れでもう正体もなく寝入ってしまったらしいが、彼の眼は冴えていた。彼は蒲団の上に起き直って、両手を膝に置いてじっと考えていた。師走の江戸の町には、まだ往来の足音が絶えなかった。今夜の霜の強いのを悲しむように、屋根の上を雁《がん》が鳴いて通った。
次郎左衛門も今夜はすぐに吉原へ行かなかった。
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