を聞かされたように、屹《きっ》と向き直った。
「佐野の客人がお前のところへ……。して、なんと言いんしたえ」
 栄之丞は正直に話した。表向きに八橋を身請けするにはどうしても千両以上の金を積まなければならないが、身代をつぶして故郷を立ち退いた今の次郎左衛門にはその工面ができない。そこで自分に頼んで、親許身請けとかいう名目にして、四、五百両で埒をあけて貰いたいという相談を受けたと、何もかも詳しく話した。
 八橋の顔の色は変った。

     十二

 八橋は栄之丞に嘘をついていたので、自分の座敷にきょう来ている客は、やはり次郎左衛門であった。彼女はいくら自分の方から親切を運んでも、それを歓んで受け入れてくれないばかりか、むしろいろいろの口実を作り設けて、なるべく自分から遠く離れようとしている栄之丞がこのごろの態度に就いて、初めは堪え切れない恨みをいだいた。
「そうした義理じゃあござんすまいに、栄之丞さんも随分不実な人でありんすね」などと、新造の掛橋や浮橋もそばから煽《あお》った。八橋はいよいよ口惜《くや》しくなった。しかし彼女は人形《ひとがた》をあぶったり、玉子に針を刺したりして、薄情の男を呪い殺すよりも、いっそこっちから彼を突き放してしまう方が優《ま》しだと考えた。彼に対する面当てに、自分のからだを次郎左衛門に売り渡してしまおうと決心した。
 八橋はそれを次郎左衛門に頼んで、次郎左衛門も承知した。その以来彼女は努めて栄之丞のことを思うまいと念じていた。次郎左衛門の見る前で手ずから焼き捨てた起請と共に、むかしの恋は冷たい灰になったものと諦めようとしていた。栄之丞がきょう思いがけなく訪ねて来たというのを聞いた時に、彼女は逢うまいかと躊躇した。
 逢うまい。いつまでも打っちゃって置いて焦《じ》らしてやれ。そうして、今まで焦らされていたこっちの身の苦しさを思い知らしてやれと、彼女はいつまでも次郎左衛門のそばを離れなかった。彼女は名代部屋にぼんやりと待ち侘びている男の寂しそうな顔を頭に描きながら、それを下物《さかな》にこころよく酒を飲んでいた。しかし、茶屋の女の催促を受けては、茶屋に対する義理として彼女も顔出しをしない訳にはゆかなくなったので、渋々ここへ来て見ると、栄之丞の口から思いも寄らない秘密を聞かされた。
 次郎左衛門の身代《しんだい》はもう潰れている。それを聞いた時に彼女
前へ 次へ
全70ページ中47ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング