籠釣瓶《かごつるべ》
岡本綺堂

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)次郎左衛門《じろざえもん》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)日本橋|馬喰町《ばくろちょう》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)急にばたばた[#「ばたばた」に傍点]と
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     一

 次郎左衛門《じろざえもん》が野州《やしゅう》佐野の宿《しゅく》を出る朝は一面に白い霜が降《お》りていた。彼に伴うものは彼自身のさびしい影と、忠実な下男《げなん》の治六《じろく》だけであった。彼はそのほかに千両の金と村正《むらまさ》の刀とを持っていた。享保《きょうほう》三年の冬は暖かい日が多かったので、不運な彼も江戸入りまでは都合のいい旅をつづけて来た。日本橋|馬喰町《ばくろちょう》の佐野屋が定宿《じょうやど》で、主《しゅう》と家来はここに草鞋《わらじ》の紐を解いた。
「当分御逗留でござりますか」
 宿の亭主に訊《き》かれた時に、次郎左衛門は来春《らいはる》まで御厄介になるといって、亭主の顔に暗いかげをなげた。正直な亭主は彼のためにその長逗留を喜ばなかったのである。治六が下へ降りて来たのをつかまえて、亭主は不安らしくまた訊いた。
「旦那はまた長逗留かね。お家《うち》の方はどうなっているんだろう」
「いや、もう、お話にならねえ」と、治六は帳場の前にぐたりと坐って馬士《まご》張りの煙管《きせる》をとり出した。彼の父も次郎左衛門の家《いえ》の作男《さくおとこ》であったが、彼が四つの秋に両親ともほとんど同時に死んでしまったので、みなし児の彼は主人の家に引き取られて二十歳《はたち》の今年まで養われて来た。侍でいえば譜代《ふだい》の家来で、殊に児飼《こが》いからの恩もあるので、彼はどうしても主人を見捨てることはできない因縁《いんねん》になっていた。
「実をいうと、佐野のお家《いえ》はもう駄目だ。とうとう押っ潰《つぶ》れてしまったよ」と、治六は悲しそうな眼をしばたたいた。
 亭主はしばらく黙って、旅疲ればかりではないらしい彼の痩せた顔を見つめていた。
「お家が潰れた」と、亭主は呆れたように言った。「いつ、どうして……。この前に見えた時にはちっともそんな話はなかったが……」
「なに、あのときにも内々覚悟はしていたのだが、この秋になって急にばたば
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