た[#「ばたばた」に傍点]と傾いて来たので……。こうなっちゃあ人間の力で防ぎは付かねえ」
 治六はきれいに諦めたらしく言っていた。去年からの主人の放蕩で、佐野で指折りの大家《たいけ》の身上《しんしょう》もしだいに痩せて来た。もっとも、これは吉原通いばかりのためではない。ほかに有力な原因があった。侠客肌の次郎左衛門は若いときから博奕場《ばくちば》へ入り込んで、旦那旦那と立てられているのを、先代の堅気な次郎左衛門はひどく苦に病んで、たびたび厳しい意見を加えたが、若い次郎左衛門の耳は横に付いているのか縦《たて》に付いているのか、ちっともその意見が響かないらしかった。
「百姓の忰《せがれ》めが長いものを指《さ》してのさばり歩く。あいつの末は見たくない」
 口癖にこう言っていた父は、自分の生きているあいだに、形見分けの始末なども残らず決めておいた。足利《あしかが》の町へ縁付いている惣領娘《そうりょうむすめ》にもいくらかの田地を分けてやった。檀那寺《だんなでら》へも田地《でんぢ》の寄進《きしん》をした。そのほか五、六軒の分家へも皆それぞれの分配をした。
「これでいい。あとは潰すともどうとも勝手にしろ」
 父は財産全部を忰の前に投げ出して、自分は思い切りよく隠居してしまった。それでも先代の息のかよっている間は、若い次郎左衛門はさすがに幾らか遠慮しているらしい様子も見えたが、その父が六十一の本卦《ほんけ》がえりを済まさないで死んだのちは、もう誰に憚《はばか》るところもない。二代目の次郎左衛門は長い脇指《わきざし》の柄《つか》をそらして、方々の賭場へ大手を振って入り込んだ。父が三回忌の法事を檀那寺で立派に営んだ時には、子分らしい者が大勢《おおぜい》手伝いに来ていて、田舎かたぎの親類たちを驚かした。足利の姉は涙をこぼして帰った。それは次郎左衛門が二十二の春であった。
 次郎左衛門には栃木の町に許婚《いいなずけ》の娘があったが、そんなわけで破談となった。妾《めかけ》を二、三人取り替えたことはあったが、一度も本妻を迎えたことはなかった。いかに大家でも旧家でも、今の次郎左衛門に対して相当の家から娘をくれる筈はなかった。次郎左衛門の方でも野暮《やぼ》がたい田舎娘などを貰う気はなかった。彼はいつまでも独身《ひとりみ》で気ままに暮らしていた。
 彼は博奕場へ入り込むようになってから、ある浪人者に就
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