しい。どうしなんした」
新造の浮橋がすぐに出て来たが、いつものように八橋の座敷へは通さないで、別の名代部屋《みょうだいべや》へ案内した。誰か客が来ているのだろうと栄之丞は想像した。彼をそこに待たせておいて、浮橋はそそくさと出て行った。
「どっちの話から先きにしようか」と、栄之丞は思案した。問題の重い軽いをはかりにかけると、どうしても身請けの話の方をさきに切り出さなければならなかった。彼はそのつもりで待っていたが、八橋は容易に顔を見せなかった。しかし、ほかの客が来ている以上は座敷の都合もある。彼はこれまでにもたびたびこういう経験があるので、貼りまぜの金屏風の絵などを眺めながらいつまでも気長に待っていると、浮橋から報《しら》せたと見えて、やがて茶屋の女が来た。栄之丞が酒を飲まないことを知っていながらも、型ばかりの酒や肴を運んで来た。
「八橋の座敷には誰が来ている。立花屋の客かえ」と、栄之丞は訊いた。
「あい、そうでござります」と、女は答えた。
栄之丞と次郎左衛門とは茶屋が違っていた。
立花屋の客というのは、もしや次郎左衛門ではないかと栄之丞は直ぐに胸にうかんだ。次郎左衛門が来ているとすれば、挨拶をしないのも義理がわるい。しかし彼は次郎左衛門と顔を合わせたくなかった。次郎左衛門が来合せている時に、八橋にむかって身請けの話を言い出すのも妙でないとも思った。
栄之丞はいっそ八橋に逢わずに帰ろうかとも考えた。しかしまた出直して来るのも面倒であった。身請けの話はともかくも、かの十両の問題はどうしてもきょうのうちに解決して置きたかったので、彼は考え直してまた根《こん》よく待っていた。
八橋はなかなか来なかった。栄之丞よりも茶屋の女が待ちかねて、新造のところへ催促に行った。催促されて八橋はようよう出て来たが、風邪をひいて頭痛がするとかいって、彼女はひどく不気色らしい顔をしていた。
「お客は佐野の大尽かえ」と、栄之丞が念のためにまた訊いた。
「いいえ」
その返事を聞いて栄之丞も少し安心した。杯のとりやりを型ばかりした後に、茶屋の女を遠ざけて栄之丞は早速本題にはいった。
「佐野の客からこのごろ何か身請けの話でもあったかえ」
「いいえ、なんにも知りいせん」と、八橋は冷やかに答えた。
「実は旧冬二十五日の晩に、わたしのところへその相談に来たんだが……」
八橋は思いも付かないこと
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