うふうに、八橋はただ笑って起って行ってしまった。
「久し振りの土産にさえ二百両もくれなんした佐野の大尽が、おいらんの身請けを四百両や五百両で……。ほほ、馬鹿らしい」と、浮橋もあざけるように笑った。
この廓へ足踏みをしてから、彼は幾たびかこの「馬鹿らしい」を浴びせられているので、治六は別に恥かしくも腹立たしくも感じなかったが、今の二人の顔色や口ぶりによると、身請けなどという相談はとても今の懐ろでは出来ないものと諦めるよりほかはなかった。
そうすると、主人は相変らず現在の放蕩を続けてゆく。金はみすみす減ってゆく。それから先きはどうなるだろうと思うと、彼は実に気が気でなかった。こうして暖かい蒲団の上に坐っていても、彼の胸には冬の夜の寒さが沁み渡るようにも思われた。しかもその「馬鹿らしい」ことを言った祟《たた》りで、彼は浮橋にさんざん振り付けられた。
けさも流連《いつづけ》かとひやひやしていると、次郎左衛門は思い切りよく朝の霜を踏んで帰った。途中はなんにも言わなかったが、馬喰町へ帰ると彼は怖い顔をして治六に宣告した。
「貴様には暇をくれる。どこへでも勝手に行け」
ゆうべの祟りの余りに劇《はげ》しいのに治六も驚かされた。なぜ暇をくれると言うのか、それに就いて次郎左衛門はなんにも説明を与えなかったが、かの身請けの一条を八橋が訴えたものに相違ない。主人に恥をかかした――それが勘当の根となったことは、治六にもたやすく想像されたので、彼はいろいろに言い訳をしてあやまった。八橋の身請けのことを口走ったのも決して悪気ではない、つまりは旦那さまのおためを思うがためであったと、彼は泣いて言い訳をした。
「今更ぐずぐず言うな。出て行け」
次郎左衛門はどうしても取り合わなかった。それでも十両の金をくれて、すぐにここを出て行けと言った。治六も途方に暮れて、帳場へ行って亭主に泣きついた。亭主もおどろいて二階へ行って共どもに口を添えて取りなしたが、次郎左衛門はやはり肯《き》かなかった。
いったん言い出したらあとへは戻らない主人の気質《きしつ》を呑み込んでいるので、治六もあきらめて階下《した》へ降りた。
「ご亭主さん。いろいろ有難うごぜえました。これもわしの不運で仕方がごぜえませんよ」
「だが、旦那の料簡が判らない。お前さんのことだから、どれほどの悪いことをした訳でもあるまいに、長年《ちょう
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