平気で笑っていた。
 栄之丞は廊下へ出るにも注意して、なるべく次郎左衛門と顔を合わせないように念じていた。彼は引け四つ(十時)前に帰ろうといったが、八橋が無理にひき留めて放さなかった。
 この晩は夜なかから南風《みなみ》が吹き出して、兵庫屋の庭の大きい桜の梢をゆすった。
 夜があけるのを待ちかねて、栄之丞は兵庫屋を出た。八橋も茶屋まで送って行った。その留守の間に次郎左衛門も飛び起きて、忙がしそうに顔を洗った。
「いっそ直しておいでなんし」
 新造たちの止めるのを振り切るようにして、次郎左衛門は立花屋へ帰った。浮橋が送って行った。ゆうべの風の名残りで、仲の町には桜が一面に散って、立花屋の店先には白い花の吹き溜まりがうずたかく積もっていた。まだ大戸をあけたばかりの茶屋では、次郎左衛門がいつにない早帰りに驚かされた。
「お早うござります」
 二階へあがれと勧められたが、次郎左衛門はすぐに帰るといって、籠釣瓶をうけ取って腰にさした。女中は駕籠を呼びに行った。浮橋は栄之丞の茶屋へ八橋を迎いに行った。ひと足さきへ帰るつもりであったのを、かえって次郎左衛門に先《せん》を越された気味で、栄之丞は少し躊躇したが、いっそこうなったら次郎左衛門をさきにやりすごして、自分は後から大門を出ようと思ったので、ともかくも早く立花屋へ顔を出して来たらよかろうと八橋に言った。
「そんなら、ちょいと行って来るまで待っていておくんなんし」と、八橋は念を押して出て行った。
 浮橋はひと足さきへ駈けぬけてゆくと、次郎左衛門はやはり立花屋の店先に腰をかけていた。表はもう薄明るくなっていたが、店の奥には暁《あ》けの灯の影が微かにゆらめいていた。
「もう帰りなんすかえ」
 八橋は次郎左衛門のそばへ来て同じく腰をかけた。籠釣瓶を身に着けていながら、次郎左衛門はまだ思い切って手をかける機会がなかった。彼は花の吹き溜まりを爪先《つまさき》で軽くなぶりながら、なるべく女の顔を見ないように眼をそらしていた。そのうちに女房は衣類を着替えて奥から出て来て、ともかくも二階へあがれと次郎左衛門にすすめた。浮橋も勧めた。
「まあ、大尽から」と、女房は手を揉みながら言った。
 次郎左衛門は無言でずっと起って店口の階子《はしご》をあがった。少しおくれて八橋も上がった。
 彼女が階子の中ほどまで登った時に、もう上がり切っていた次郎左衛門が
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