上から不意に声をかけた。
「八橋」
思わず振り仰ぐ八橋の頭の上に、さっ[#「さっ」に傍点]という太刀風が響いたかと思うと、彼女の首は籠釣瓶の水も溜まらずに打ち落されて、胴は階子に倒れかかった。兵庫に結った首は斜《はす》に飛んで、つづいて登ろうとする浮橋の足もとに転げ落ちた。浮橋も女房も、はっ[#「はっ」に傍点]と立ちすくんだままで声も出なかった。
丁度そこへ次郎左衛門を迎いの駕籠が来た。駕籠屋がおどろいて口々にわめいた。近所の者も駈けて来た。
「逃げ隠れする者でない。次郎左衛門はここで切腹する。見とどけてくれ」と、次郎左衛門は二階から叫んだ。しかし彼が最後の要求は誰にも肯《き》き入れられなかった。
「人殺しだ、人殺しだ。逃がすな、縛《くく》れ」
立花屋の店先には人の垣を築いた。聞き分けのない奴らだと次郎左衛門は憤った。卑怯に逃げ隠れをするのでない。ここで尋常に自滅するというものを、無理無体に引っくくって生き恥をさらさせようとする。それならばこっちにも料簡がある。最後の邪魔をする奴は片っ端から切りまくって、一旦はここを落ち延びて、人の見ないところで心静かに籠釣瓶を抱いて死のうと、彼は八橋を切った刀の血糊《ちのり》をなめて、階子の上がり口に仁王立《におうだ》ちに突っ立って敵を待っていた。くるわの火消しがまっさきに駈けあがったが、その一人は左の肩を切られて転げ落ちた。つづいて上がろうとした一人も、手鳶《てとび》を柄から斜めに切られて、余った切っ先きで小手《こて》を傷つけられた。狭い階子の上に相手が刃物をふりかざしているので、誰も迂闊《うかつ》に寄り付くことができなかった。みんなは店から煙草盆を持って来て二階へ投げあげた。茶碗や小皿なども投げ付けた。
「屋根から窓の方へ廻れ」と、誰か叫ぶ者があった。
逃げ路を塞がれては不便だと気がついて、次郎左衛門は敵の廻らないうちに、自分から先きに窓を破って大屋根の上に逃げて出た。風は暁け方から吹きやんで、三月の朝の空は眼を醒ましたようにだんだんに明るくなった。幾羽の鳩の群れが浅草の五重の塔から飛び立つのが手に取るようにあざやかに見えた。眼の下の仲の町には妓楼や茶屋の男どもが真っ黒に集まっていた。
火消しは長ばしごを持ち出して来て、方々から屋根伝いに追い迫って来た。次郎左衛門はそれでも二、三人を切りおとして、隣りの屋根から物干の
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