から、八橋をここへ呼んでくれまいか」
「まあ、そんなことを仰しゃりますな。茶屋で帰るという法はござりますまい」
 女中は笑って行ってしまった。
 次郎左衛門は少し目算《もくさん》が狂った。彼は今夜八橋を殺しに来たのである。それには兵庫屋の二階へ刀を持ってゆくことは出来ないので、なるべく彼女を茶屋まで呼び出したかった。一緒に死んでくれと頼んでも、八橋が承知しそうもないことは彼もさすがに知っていた。なまじいのことを言い出して恥をかくよりも、なんにも言わずに不意に切ってしまう方がいいと胸を決めていた。しかし思い切って彼女を切れるかどうだか、次郎左衛門は我ながら少し不安であった。
 腕に覚えはある、刀は銘刀である、骨の細い女ひとりを打《ぶ》っ放すのは、なんの雑作《ぞうさ》もないことではあるが、八橋を切る――それを思うと、彼はなんだか腕がふるわれた。人を切った経験はたびたびある。血を見ることを恐れるおれではないと思いながらも、八橋を切ることは次郎左衛門に取って一生で一度のおそろしい仕事であった。
 一旦ひそんだ野性が再びむらむら[#「むらむら」に傍点]と頭をもたげて、すでに人を殺すと覚悟した以上、なんの遠慮も容赦もない筈であるが、相手が八橋であるだけに彼はやはり臆病らしい一種の未練に囚《とら》われていた。いま殺そうというきわまで彼は八橋が可愛かった。勿論、可愛いから殺すのである。そうは知っていながらも、どうして突くか、どこから切るか、彼はおののく腕を組みながら、まず刃の当てどころからして考えなければならなかった。
「いっそ喧嘩でも吹っ掛けようか」
 彼は更にまず刀をぬく機会を求めなければならなかった。尋常に八橋と向き合っていて、とても彼女に切り付けることはできない。何かの切っ掛けを見付けて、ひと思いに切り付ける工夫をしなければならないと思った。八橋がいつものように笑い顔をしていたら、とても切るも突くも出来そうもない。何か相手の方からいい機会を与えてくれればいいと、ひそかに祈っていた。
 やがて女中が帰って来た。やはり八橋は来なかった。新造の浮橋が来て、無理に次郎左衛門を兵庫屋へ連れて行ってしまった。彼はよんどころなしに、籠釣瓶を茶屋にあずけて出た。
 次郎左衛門が来たと聞いた栄之丞は、案外に思った。八橋は別に驚きもしなかった。
「ほほ、未練らしい。また来なんしたか」と、彼女は
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