うに知っていた。それでも彼がいよいよ大門をくぐることが出来ないほどに行き詰まったかと思うと、栄之丞は急に悲しい果敢ないような、なんだか涙ぐまれるような寂しい心持ちになって来た。
「何を考えていなんす。花の三月、浮きうきとおしなんし」と、八橋は華やかな声で笑った。
 栄之丞は黙っていた。こうしてうかうか[#「うかうか」に傍点]釣り出されて来たものの、彼は女の心がやはりおそろしかった。
 新造の掛橋や浮橋が催促に来た。八橋は仲の町の茶屋へ行かなければならなかった。彼女は栄之丞を待たせて置いて出た。

     十六

 享保時代の仲の町には、まだ桜が多く植えられていなかった。その頃の夜桜というのは、茶屋の店先や妓楼の庭などへ勝手に植えられたもので、それが年中行事の一つとなって、仲の町に青竹の垣を結い廻して春ごとに幾百株の桜を植え、芝居の「鞘当《さやあて》」の背景に見るような廓の春を描き出すことになったのは、この物語の主人公が亡《ほろ》びてから二十年余の後であった。それでも春の夜はやはり賑わしかった。
 そのぞめき[#「ぞめき」に傍点]の群れにまじって、次郎左衛門は仲の町を忍ぶように通った。八橋の予言ははずれて、彼は再び大門をくぐったのであった。しかも、なんの躊躇もせずに彼はまっすぐに立花屋の店先へずっとはいった。
「おや、佐野の大尽さま。お久し振りでござりました」
 女房のお藤はいつもの通り愛想よく迎えた。次郎左衛門はもうこの茶屋に百両余りの借りが出来ていた。
「この頃はどうなされたかとお噂ばかり致しておりました。浮橋さんの噂では、ひょっとするとお国へお帰りなすったのかなど申しておりましたが、やはりまだ御逗留でござりましたか。八橋さんの花魁もさぞお待ちかねでござりましょう。まあどうぞお二階へ……」
「いや、急に暖かくなったせいか、駕籠にゆられてなんだか頭痛がする。少しここで休ませてもらおうか」
 次郎左衛門は店さきの床几《しょうぎ》に腰をおろして、花暖簾を軽くなぶる夜風に吹かれていた。彼は女中が汲んで来た桜湯《さくらゆ》をうまそうに一杯飲んで、ゆったりした態度で往来の人を眺めていた。女中がすぐに八橋のところへ報《しら》せに行こうとするのを、次郎左衛門は急に呼び止めた。彼は兵庫屋の二階へ登りたくなかった。
「あ、これ、わたしは少し都合があって、今夜はここで帰るかも知れない
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