ばかり言って……」と、八橋は冷やかに言った。
 人の心づくしを仇にして、去年以来とかくに自分から遠退《とおの》こうとしているらしい栄之丞の不真実が、八橋に取っては恨めしいを通り越して憎く思われた。憎い彼を突き放して、可愛くもない次郎左衛門に身を任せようとしたのも、それがためであった。そうして、起請はつめたい灰にしてしまったが、彼女の胸の底にはそのほとぼりがまだ残っていた。お光の金の一条で栄之丞が偶然訪ねて来たのが口火になって、そのほとぼりはまた煽られた。それと一緒に、次郎左衛門の落ちぶれたことも判った。落ちぶれた二人の男を列《なら》べて見くらべた時に、八橋はもう新しく考える余地はなかった。彼女はやっぱり昔の男が恋しかった。
 いったん次郎左衛門に倚《よ》りかかろうとした彼女の心は、その時から又がらりと変った。いったん持ち出した身請けの相談も、なるべく口には出さないようにしていた。次郎左衛門が落ちぶれたという話も、なるべく聞かない振りをしていた。彼女はどこまでも今までのお大尽さまとして次郎左衛門を取扱っていた。そこに彼女の冷たい心の忍んでいることを、次郎左衛門はまだ覚らないらしかった。
 次郎左衛門を見限ると同時に、彼女はむやみに栄之丞が懐かしくなって、うかうか[#「うかうか」に傍点]と起請を焼いたことがしきりに悔まれた。いろいろの手段を尽くして、むかしの恋人を引き寄せようとあせった。その念がふた月越しでようように届いて、眼に見えない糸に引かれたように男が今夜ふらり[#「ふらり」に傍点]と来た。彼女は嬉しいので胸がいっぱいになって、次郎左衛門のことなどを話している余地はなかった。
 栄之丞から訊かれて、彼女は初めて思い出したように、二月以来、次郎左衛門の足が遠ざかったことを話した。浮橋の噂によると、次郎左衛門は余ほど内証が詰まって来て、茶屋にも借りが出来たらしい。今まで大尽かぜを吹かせていた彼が、廓の人たちの手前、余り落ちぶれた姿を見せたくもあるまい。このごろ足をぬいたのも無理はない。利口な人ならば、ここらでもう見切りをつけて、二度と大門《おおもん》をくぐらない筈であると、八橋は彼の未来を占うように言った。
「そうかも知れない」
 栄之丞は思わず溜め息をついた。廓で全盛を尽くした大尽の零落は珍らしくない。次郎左衛門が佐野の身上《しんしょう》をつぶしたことは、栄之丞もと
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