栄之丞はうすら眠いような心持ちになって、どんよりした眼でふたたび吉原の空を見た。春の癖とはいいながら、晴れた空でも少しはなれた廓の上は煙るように霞んでいた。
 ゆうべは八橋から手紙を受取った。きょうは妹に一度は行ってくれと頼まれた。しかも、このうららかな春の日にあぶられて、栄之丞の肉も心もおのずと春めいて来た。ともかくも一度八橋に逢って、起請を焼いたわけを聞いて見ようかというような未練もおこった。次郎左衛門がこの頃ちっとも来ないという訳も聞きたかった。
 この際よし原に入り込んでも次郎左衛門と顔を合わせる気づかいはあるまいという一種の安心もあった。ちょうど天気もよし、いっそ今夜行って見ようと、彼はふらふらとその気になった。別に用もないからだであるので、彼はそれから髪結床へ行って、その帰りに湯にもはいって来た。
 今夜八橋に逢って、起請を焼いたわけも判って、次郎左衛門ももう来ないと決まったら、これから後はどうするか。やっぱりもとの通りに八橋との縁をつなぐか、それともあくまでも彼女の冷たい心を恐れてなんとか縁をきる工夫をするか。栄之丞もまだそこまではよく考え詰めていなかった。ゆうべの八橋の手紙と、きょうのお光の頼みと、自分自身の春めいた心と、この三つにそそのかされて、彼は唯うかうかと春の日の暮れるのを待っていたのであった。
 先月は霜枯れで廓も寂しかったのは、この大音寺まえを通る駕籠の灯のかずでも知られた。いよいよ今が花の三月となっても、毎日の雨に邪魔されていたらしかったが、きょうは俄か天気で世間も俄かに春めいたので、日が暮れると表には駕籠屋の威勢のいい掛け声がつづけてきこえた。ひやかしのそそり節《ぶし》も浮いてきこえた。
 栄之丞ももうじっとしてはいられなくなって、六つ(午後六時)を合図に家を出ると、十日のおぼろ月は桜の梢を夢のように淡く照らしていた。
 兵庫屋へ送られてゆくと、八橋は待ちかねていたように彼を迎えた。手紙に書いてあった恨みや辛みは口へも出さないで、彼女はただ懐かしそうな笑顔で男と向き合っていた。お光の安否などもたずねた。こっちで第一に詮議しようと思っている起請のことも次郎左衛門のことも、容易に彼女の口から出そうもないので、栄之丞の方から催促するように訊いた。
「佐野の大尽はどうして来ない」
「来られた義理でもありんすまい。三月までに請け出すのなんのと嘘
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